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徳川家康、豊臣方と仲良くしたかった? 実は、腹黒じゃなかった説
腹黒いイメージの強い徳川家康ですが、実は、豊臣家との共存を考えていたふしがあります。「いいがかり」と言われている方広寺の釣り鐘の銘文も、当時の感覚では十分、非礼にあたるという説も。
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腹黒いイメージの強い徳川家康ですが、実は、豊臣家との共存を考えていたふしがあります。「いいがかり」と言われている方広寺の釣り鐘の銘文も、当時の感覚では十分、非礼にあたるという説も。
腹黒い狸おやじというイメージの強い徳川家康ですが、実は、豊臣家との共存を考えていたふしがあります。「家康」という名前を引き裂いたという「いいがかり」と言われている方広寺の釣り鐘の「国家安康」の文字も、当時の感覚では十分、非礼にあたるという説も。
徳川家康の腹黒いイメージを印象づけるのが、京都・方広寺の釣り鐘の銘文を巡る騒動です。「国家安康」「君臣豊楽」という文字を、「家康の名を引き裂いて呪詛(じゅそ)するもの」といいがかりをつけて大坂冬の陣をおこしたと言われています。
歴代の大河ドラマでも、一癖ある個性派俳優が演じています。「独眼竜政宗」「葵 徳川三代」で津川雅彦さん、「功名が辻」は西田敏行さん、「天地人」で松方弘樹さん、「江~姫たちの戦国~」は北大路欣也さん、そして「軍師官兵衛」では寺尾聰さんが演じました。
ところが、国際日本文化研究センター教授の笠谷和比古(かさやかずひこ)さん(日本近世史)によると、方広寺の鐘に関する家康の抗議は「筋が通っており、捏造(ねつぞう)などではない」と言います。当時、諱と呼ばれる実名(この場合は家康)で呼んだり、諱を無断で鐘銘に使ったりするのは礼を失する行為にあたるそうです。「一方の『君臣豊楽』では豊臣の文字を入れて秀頼や秀吉などの諱は使っていない。呪詛といわれても仕方ないのでは」と指摘しています。
豊臣政権下の五大老となった徳川家康は、1600年の関ケ原の戦いで石田三成率いる西軍を撃破。幕府を開きます。
ところが、笠谷さんによると、家康は元々、豊臣家を滅ぼそうなどとは考えていなかった可能性が高いそうです。関ケ原合戦の前に、のちに東軍に属する武将が集まって行われた小山評定は、当初は石田三成の謀反を鎮めてほしいという増田長盛や淀殿の要請に応じる形で方針が決定されていました。関ケ原後の領地の再配分も、あくまで五大老の筆頭という立場で行っています。
笠谷さんは「領地の給付状況をみると、西日本には徳川譜代の大名がまったく配されていない。家康は、東日本は徳川、西日本は豊臣という、『二重公儀体制』による全国支配を考えていた節がある」と見ています。
それが、なぜ豊臣家を滅ぼす結果になったのか。笠谷さんは「彼は二重公儀体制を志向しながら、自らの死後、実績のない秀忠ではそれを支えきれないと危惧していた」と話します。「豊臣の一大名に戻れればいいが、徳川家が滅ぼされてしまう可能性の方が高い。悩んだ末に踏み切ったのだと思います」
明治維新以降は新政府の旧敵ということでマイナスイメージが強調されたことで、徳川家康の腹黒いイメージが定着したようです。