連載
#4 帰れない村
震災直後の大切な「最後の写真」 避難先で患者を案じ続ける看護師
「これ、貴重な写真だと思いません?」
福島市で避難生活を続ける看護師今野千代さん(68)が、一葉の写真を見せてくれた。時計の針は午後4時少し前。医師を囲んで、看護師が笑っている。
「震災直後の3月11日の写真です。研修医の勤務の最終日で、お昼にお別れ会をやって、直後に大きな揺れに襲われ、さよならの前に写真をパシャッと。診療所で写した最後の写真になりました」
福島第一原発から北西に約30キロ。37年間勤務した旧津島村で唯一の医療機関「津島診療所」に、沿岸部から多くの人が押し寄せてきたのは2011年3月12日の朝だった。原発が危機的状況に陥り、政府が早朝、原発の半径10キロ圏内に避難指示を出していた。
人口約1400人の旧津島村に、避難してきた町民は約8千人。何も持たずに避難してきた町民たちは持病の薬を求め、診療所の前に長い列を作った。医師の処方に応じて薬を手渡す。普段なら40人程度の患者数が、この日だけで330人を超えた。
3日後の3月15日には「診療所を閉鎖して津島地区からも避難するように」との指示を受けた。約13キロ離れた二本松市の東和地区に避難したところ、寝たきりの高齢者らが約20人、公共施設の床に雑魚寝させられていた。「このままでは死んでしまう」と施設の片隅に臨時の診療所を開設し、医師と一緒に治療に当たった。「もう何もかもが夢中でした……」
その後、二本松市の運動場に移設された診察所に1年半勤め、定年退職した。今は体を安めながら、県内外に散らばって暮らしている、かつて受け持った旧津島村の患者を案じる。
携帯電話を持っていない高齢者が多く、連絡を取り合えない。持病の薬は飲んでいるだろうか。体調は悪化していないだろうか。
震災後、新聞購読を始めた。おくやみ欄の名前をチェックするためだ。
「津島では誰かが亡くなればすぐに気づけた。原発事故以降、そんな『当たり前』のことでさえ、わからなくなってしまった」
三浦英之 2000年、朝日新聞に入社。南三陸駐在、アフリカ特派員などを経て、現在、南相馬支局員。『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で第18回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で第25回小学館ノンフィクション大賞を受賞。
1/9枚