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「ロヒンギャって呼ばないの?」日本からは見えない難民問題の根っこ
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ロヒンギャ難民って知っていますか? 日本だと他人事に思えるかもしれません。私もミャンマーに赴任するまで、それほど詳しかったわけではありませんでした。でも、現地で取材をする中で、日本ではわからなかったことが見えてきました。「日本軍も関係していた?」「ロヒンギャって呼ばないの?」。今さら聞けないロヒンギャ問題の根っこについて考えます。(朝日新聞ヤンゴン支局長兼アジア総局員・染田屋竜太)
バングラデシュ南東部、コックスバザールにあるロヒンギャ難民キャンプ。12平方キロの広さに難民の簡易住居がびっしり並びます。
東京都千代田区がすっぽり入ってしまうこの地域に、ミャンマーから逃げてきたロヒンギャが約90万人が暮らしています。木を伐採してむき出しの土の上に竹やテントシートでつくった住居が肩を寄せ合うようにして並んでいます。
避難から数カ月たち、テントはやぶけ、雨すらもしのげない状況。簡易トイレがつくられていますが、キャンプ内を歩くときついにおいが鼻をつきます。さらに、この地域特有のサイクロンやモンスーンが迫る。国連機関は、少なくとも10万人が「深刻な危機」、つまり命を失う可能性が高いと推計しています。
住居の補強のため、竹を運ぶ途中に道にへたり込んでいた、スカラミアさん(85)は、「バングラデシュに逃げてきたのは3回目。いつになったら落ち着いて暮らせるのか」。ロヒンギャが難民になったのは、今回が初めてではないのです。
私は2017年4月にミャンマーに赴任したとき、ロヒンギャについて「迫害されている難民」くらいしか知識がありませんでした。その4カ月後に、ロヒンギャの武装組織が起こした警察襲撃事件、それに対する政府の掃討作戦で多数の難民が生まれ、連日のように記事を書くことに。
これまでのロヒンギャの歴史やなぜこの問題が難しいのか、本を読んだり人に話を聞きにいったりして必死に勉強しました。
まず、「ロヒンギャ」という言葉。ミャンマーの人たち、特に仏教徒は使いません。「あれは彼らが勝手に名乗っている名称だ」というのです。ミャンマー政府も「ロヒンギャという民族」は存在しないという考え方です。多くは「ベンガリ(ベンガル語を話す人)」という呼び方をしています。
では、民族でなければ何なのでしょうか。ロヒンギャはイスラム教徒で、主にミャンマー西部ラカイン州に住んでいました。1990年代から何度も難民になっており、今では昨年8月以来70万人が逃れたバングラデシュはもちろん、パキスタンや中東諸国にもいます。
ここで難しいのが、「ラカイン州に住むイスラム教徒」ということです。ミャンマーには他にも「バマー(ビルマの)ムスリム」と呼ばれる人々ら、イスラム教徒がいます。
私が驚いたのは、バマームスリムにとっても、ロヒンギャの問題は「余り話したくないこと」。ヤンゴンに住むバマームスリムの男性は、「ロヒンギャのせいでこの国でイスラム教徒がすみづらくなっている」とため息をついていました。
私は、ロヒンギャの問題を、「ミャンマーの仏教徒とイスラム教徒との対立」と捉えていたのですが、そうではないようです。むしろ、「宗教間の争い」という見方には激しい反発があります。あくまでも、「イスラム教徒の中でロヒンギャは特別」という意識なのです。
なぜでしょうか。私が少しずつ理解できたのは、その歴史を学んだことからでした。ミャンマーの人たちは、ロヒンギャのことを「後から入ってきた移民だ」と主張します。一方、ロヒンギャの人たちは「自分たちは土着の民族だ」と訴えます。ここに、大きな溝があります。
ミャンマーでは、「元々住んでいた国民」の定義について、イギリスの植民地政策が始まった1820年ごろで線を引いています。ミャンマーの人たちからすれば、ロヒンギャは「その後に来た移民」になるのです。
難しいのが、ラカイン州はバングラデシュと国境を接しているということです。かなり以前から、バングラデシュとミャンマーを行き来しながら農業をしたり商売をしたりしてきたイスラム教徒がいたと考えられています。植民地時代はバングラデシュとミャンマーの間は自由に往来できました。
1948年にミャンマーがイギリスから独立し、いきなり明確な国境が引かれたことから、その周辺に住んでいたイスラム教徒の人たちが「土着」かそうでないかが議論になっているのです。
今、ロヒンギャ問題を語る人は大勢いますが、書籍などに基づいて歴史を緻密に見ている人は多くありません。
専門家の一人、フランス国立極東学院のジャッカス・レイダー氏によると、ラカイン州のイスラム教徒が自分たちのことを「ロヒンギャ」と呼んだのが確認できるのは、1950年代の文書が初めてだそうです。
レイダー氏は、「ロヒンギャ」という言葉自体はそれより前からあったかもしれないが、ミャンマーの独立後、ロヒンギャの人たちが自治を主張するため、自分たちは土着民族の「ロヒンギャ」だと発信するようになったというのです。
この「ロヒンギャ」という言葉は1990年代以降に国際的に知られるようになります。それが、当時のミャンマー軍政によるロヒンギャへの迫害です。1982年につくられた「国籍法」によって国籍を判断する規定が厳格になり、「土着民族でない」とされたロヒンギャの多くは、国籍を持たない人になりました。
そして、軍政は「不法移民」のロヒンギャを弾圧。20万人以上がバングラデシュに難民として逃れたとみられています。その様子が世界的に報じられ、話題となりました。その後、バングラデシュ・ミャンマー両政府の話し合いでこの難民の多くはミャンマーに戻りました。
2012年には、ラカイン州に住む仏教徒「ラカイン族」と、大きな衝突が起きます。10万人以上のロヒンギャが国内の難民キャンプに移る事態になりました。
この、ラカイン州での仏教徒とイスラム教徒の対立というのに、日本も関係していると主張する専門家もいます。
第二次世界大戦時、当時のビルマに侵攻した日本は、仏教徒ラカイン族を武装させ、植民地支配していたイギリスはロヒンギャ側に武器を提供するなどしていたというのです。現在のラカイン族の民族政党の幹部は、「当時の対立が今も影を落としている」と打ち明けます。
私もこの話を聴いたとき、ロヒンギャ問題が他人事ではないのか、と感じました。ただ、戦後、ラカインとロヒンギャはある程度うまくやっていた時期もあったため、「戦時中の対立を大きな理由とするのは間違っている」という声もあります。
ロヒンギャの出生率はミャンマーの国全体の平均の1.6倍という研究もあり、「増えている」という主張が見当外れとは言えません。ただ、「改宗を迫る」「暴力を振るう」など、ラカイン族が訴えることがどれだけ起きているのか、裏付ける証拠ははっきりしません。
軍事政権が終わった後の2014年、ミャンマーでは国勢調査がありました。しかし、ロヒンギャと名乗る人々を対象にすることに強い反発が出たこともあり、正式な集計には入っていません。参考として政府は、ラカイン州に約100万人のイスラム教徒がいると発表。これがロヒンギャの人口と考えられています。
しかし、その100万人は、アウンサンスーチー氏らが政権をとった翌2015年の総選挙では選挙権を与えられませんでした。
テロ組織などに詳しい「国際危機グループ(ICG)」のアナガ・ニーラカンタン氏は、このことが、ロヒンギャが武装化したり暴徒化したりすることにつながったと言います。「国籍も与えられず、教育も受けられず、そんな中で選挙権まで奪われたら何に訴えればいいのかという絶望感が覆ったのではないか」というのです。
2016年10月、やりや手製の銃で武装したロヒンギャが警察施設を襲い、複数の警察官が殺されました。これに対し、国軍や警察でつくる治安部隊が掃討作戦を開始。約7万人がバングラデシュに逃れました。
2017年8月、今度は同じような武装集団が警察施設など30箇所を襲い、警察官や兵士が殺されました。そしてこれに対する掃討作戦が、難民を生むことになったのです。
襲撃後、「アラカン・ロヒンギャ救済軍(ARSA)」と呼ばれる謎の集団がツイッターで犯行声明を出しました。「迫害されたロヒンギャを救うためにやった」といいます。ちなみに、ラカイン州があった土地には元々「アラカン」という王国がありました。
難民がふくれあがると、国際社会はスーチー氏やミャンマー政府に「民族浄化だ」と強く批判しました。でも、ミャンマー国内で取材していると、「初めに襲撃したのはロヒンギャの方だ。なぜ批判されるのか」と憤る市民が多いです。両方を取材して、そのギャップの大きさに驚かされました。
掃討作戦を行っている治安部隊は実は、スーチー氏の権限の外にあります。今でもミャンマー政府の一部(国防や治安維持)は軍に握られているからです。今年に入り、スーチー氏は、外国の人材も入れたロヒンギャ迫害の調査チームを立ち上げることや、難民帰還のために国連機関と協力することなどを矢継ぎ早に決めました。
実は、群馬県館林市には200人近いロヒンギャの人々が住んでいます。河野太郎外相はこれまで何度も、ミャンマーのアウンサンスーチー国家顧問と会談し、ロヒンギャ問題解決への全面的な支援を約束しています。
ロヒンギャ問題解決のためには、国籍をどうするか、宗教的な違いをどう乗り越えるかなど、様々な問題が絡んでいます。でも、一つだけ言えることがります。それは、日本にとって決して他人事ではないということです。
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