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遺体の安置所で、父を待ち続けた 高3で喪主を務めた少年の40年

40年前、ある高校3年生は飛行機の事故で父を失いました。遺体が運び込まれる体育館で、父を待ち続ける日々。父の葬儀で喪主をしたあの夏。当時のことを「あの頃は感覚がまひしていた」と振り返ります。40年経って思うことを聞きました。(朝日新聞withnews編集部・川村さくら)
大阪府東大阪市で製造業を営む会社の社長を務める「山さん」(57)。
17歳だった1985年8月、大学留学のための渡米を4日後に控えた日、父(44)を亡くしました。
会社は1967年に父が創業しました。
山さんは「ニッチな業界の老舗だから、父は業界内では有名人だった」といいます。仕事に熱意のある父の姿を、間近で見ていました。
「直接なにか怒られるわけではないけど、俺にとっては世界で一番怖い人やった。一生やっても父には及ばない。今の俺を父が見たら『なにやってるんや』って叱られると思う」と笑います。
姉と妹に挟まれたひとり息子で、「言われていたわけではないけど、自分が継ぐっていうのはおぼろげに子どものころから思っていた」と言います。
1985年8月12日、父は東京の営業所への出張から帰ってくる予定でした。
工場で手伝いをしていると、テレビで日本航空のジャンボ機がレーダーから消えたとニュースが流れていました。
やがて画面には白い模造紙にカタカナで書き連ねられた乗客の名前が映り、そこに父の名前を見つけました。
「もう何も考えられなかった」と振り返ります。
翌朝、日航が手配したチャーター機で母と伯父と3人で羽田へ飛び、遺体が安置されていた群馬県藤岡市へ向かいました。
「待機場所の学校の体育館で、毎日父の遺体を待ちました」
墜落現場である上野村の御巣鷹の尾根から、遺体がヘリコプターで運びこまれます。
「父が見つかったのは16日ごろ。体はきれいな状態でした。いろんな手続きがそのあと必要で、パニックになる暇もありませんでした」
19日に荼毘に付し、21日ごろに大阪へ戻りました。自宅で葬儀を行い、喪主を務めました。
「俺が『家でやる』と言い張ったんです。連れて帰りたかった。大きな事故で話題性もあって2千人くらいの方が来ました」
近所が渋滞し、警察が小学校にかけあってグラウンドを駐車場として開放してくれるほどだったそうです。
「あとから振り返って思うけど、事故後2年くらい自分の精神状態は異常だったと思う。『怖い』とかの感情がなくなっていて、感覚がまひしていた」
「体育館で、頭だけ腕だけ足だけとかいろんな遺体を見た。異常な環境を経験した。今で言うPTSD(心的外傷後ストレス障害)だったのかもしれないです」
父の死後、会社は母が継ぎました。
留学はとりやめになり、日本の大学を卒業。同じ業界の企業で経験を積んだのち、家業に戻り、2015年には社長に就きました。
20年ほど前からは航空宇宙の分野にもたずさわっていて、「俺の境遇で皮肉だけど」と苦笑いします。
事故が起きた8月12日には、毎年家族で慰霊登山をしています。
以前は新幹線を使っていましたが、コロナ禍中から10人乗りのレンタカーで行くようになりました。
事故から40年の今年は8人で向かいました。休憩を挟みながら高速道路で片道6時間ほど。山さんがすべて運転します。
高齢の母は登山口に残って、山さん・姉・妹・妹の夫・めい・おい・おいの妻の7人が父の墓標にお参りしました。
お供えしたのは、会社の最新のカタログや製品、お菓子や父がよく食べていた貝柱です。
事故から40年が経った今年、御巣鷹でどんなことを感じたのでしょうか――。
山さんは「39年も40年も変わらない。8月12日が来て、家族で行く。これは毎年のことやからね」と語ります。
「でも、40年っていうのは本当に長い年数。8月12日に山に登るマスコミや日航の人、そして遺族の人にも、当時のことを直接は知らない人が大半になっているなって感じました」
「あの山は僕たちにとって特別な山なんです。その厳かさみたいなものは、これからも変わらないでほしいなって思います」
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