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〝悲惨〟だけを伝える映画は無力 高畑勲監督が語る「火垂るの墓」

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戦後80年の今夏、日本のNetflixでも公開される「火垂るの墓」。昨秋、先行した海外配信では「二度と見たくない傑作」などと絶賛するレビューが相次いでいましたが、日本でも待望の配信がようやく実現します。先日、この国内配信について、朝日新聞が10年前の高畑勲監督のインタビュー映像とともに報道すると、高畑さんが作品に込めた思いに改めて注目が集まりました。作中で戦争の悲惨さをあえて強調しなかった真意、そして、近年の風潮で心配していることとはーー。当時のインタビュー内容を振り返ります。(聞き手・平岡妙子、青木美希 / 再構成・小川尭洋 =いずれも朝日新聞)
ーー「火垂るの墓」の公開は1988年で、「となりのトトロ」と同時でした。当時すでに野坂昭如さんの原作小説が出て20年ほど経っていましたが、なぜアニメ化しようと考えたのでしょうか?
これ、たぶんいい話にならないですよ(笑)。実は、そんなに僕は野坂昭如(さん)を知ってたわけじゃないんですね。鈴木敏夫プロデューサーが、そういう(よく知る)世代なんですよね。
その上で、私が原作にひかれたのは、(清太と節子の兄妹)2人がいかに死に向かっていったかを閉じた世界の中で描くという「心中もの」の構造があったことです。アニメなら新しい求心力で描けるのではないかという表現上の野心が強かったですね。
それから、もちろん自分が(岡山市で)空襲を経験していることが基盤にありました。空襲の逃げ方から言うと、おそらく兄妹2人より、僕(小学4年)と姉(6年)の方がずっと危険でしたね。逃げた方向に焼夷(しょうい)弾が落ちてきて、火の海の中で立ち往生してしまった。よくぞ助かったなと思いますけれども。
ーー「火垂るの墓」をはじめとした、戦争当時のことを描いた作品は今、どんな役割を果たせると考えますか?
戦争末期でどんなひどい目にあったかということを言っても、これから起こるかもしれない戦争の実相を、必ずしも表していないのではないか、と思うんです。
原爆が落とされるとか、日本中の都市が空襲で焼き尽くされるとか、そういうことを誰も願っていなくて。(権力者は)それがよく分かってるから、「むしろそういうことにはならないために、戦争にそなえて準備しなきゃいけない」と主張する。積極的平和主義と言ってるわけですね。
日本では、平和の問題、戦争っていうと、すぐに戦争末期の空襲とか原爆とかのことを繰り返し述べているけれど、結局、どんなに日本軍がニューギニアなどで悲惨な目にあったかとか、あるいは(日本軍が)中国で一体何をしたのかとか、そういうことについては浸透してないですよね。それ自体に問題を感じているんですよ。
だから、日本が悲惨な目に遭ったことを語るだけのような映画は、これから戦争が起きないようにするためには無力だとも思います。
ーー以前の講演では、「愛する人を守るために戦う」というような最近の戦争映画にはちょっと違和感を感じるとおっしゃていましたね
愛する家族のために戦うっていうのは、そんなことは当時言ってなかったので、歴史の偽造です。公には国のため、あるいは天皇陛下のためだったんです。だって、自分が死んだら妻は一体どうするのか。死なない方が大事なんだよね。
コロリとみんな騙されてますよね。見る側も「愛する人を守るために戦う」と言われると安心して、主人公のヒロイックな行動に共感する時に、水をさされないで済むからね。みんな「良かった、泣けた」って言いたいから、作り手が媚びているわけですよ。
戦争の持ってる問題を、人を感動させながら伝えるなんてことは、できないんだって考えた方がいいと思うんですよ。多くの人を感動させて、なおかつ問題を伝えたいなんて、そんな欲ばってるよ、だいたいが。
ーーそんな「美しいもの」なんかじゃないんだ、と。
別の感動はあり得るよ。ひどくて目を背けたいけど、背けるべきかどうかってことで見る人が悩むとかね。しょっちゅう僕が例に挙げるのは、戦後のイタリアの貧困を描いた映画「自転車泥棒」(1948年)ね。
これは父と子が盗まれた自転車を探し回る物語ですけれど、とにかく子どもが可哀想だし、見てて本当に辛いんですよ。だけど、そこには真実があるんですね。だから感動もするし、僕も何回見たか分からないけど、快楽として見るつもりは全然ない。快楽を与えてくれませんから。
もし、そこで親子の情愛の美しさでうまく締めくくるとか考え出したとたんに、商業的には当たるかもしんないけど、そこでダメな映画になると思うんですよね。
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