連載
#87 イーハトーブの空を見上げて
「あの日」と同じ焦げた匂い…でも、「今度は私が守る番だ」娘の決意

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#87 イーハトーブの空を見上げて
Hideyuki Miura 朝日新聞記者、ルポライター
共同編集記者焦げた臭いが立ちこめている。怖くてたまらない。
「あの日」と同じだ。でも、違う。私は「あの日」と同じなんかじゃない。
山林火災に見舞われた大船渡市の児童養護施設に勤務する千代若菜さん(31)は3月10日、市の避難指示解除を受けて、「火元」とされる赤崎町合足(あったり)地区の自宅に戻った。
約2週間、父や祖父と市内の福祉施設で避難生活を送った。
家は辛うじて残っていた。
真っ先に自宅近くのお墓に出向いて報告した。
「お母さん、帰ってきたよ」
2月26日は児童養護施設で勤務中だった。
「合足で火災が起きている」と聞いて急いで自宅へと戻ると、目の前の山から火柱が立ち上がっていた。
家には父方の祖父がいた。「火事だよ、逃げよう」。母の位牌を持ち出して、近くの公民館に逃げ込んだ。
山に鳴り響く防災無線。漁港を真っ赤に染める消防車の赤色灯。避難所の外では住民が不安そうな表情で空を見つめている。
すべてが「あの日」の記憶と同じだった。
2011年3月11日は大船渡高校の2年生だった。
柔道部のマネジャーとして部活動中だった午後2時46分、地面が激しく揺れ、体育館の窓ガラスが落下した。
泣きながら校庭に避難していると、午後3時15分、母・清子さん(当時46)から携帯電話にメールが届いた。
「大丈夫? 迎えに行くからね」。しかし、母は現れなかった。
高校に迎えに来た父・和人さん(62)や父方の祖父母、柔道部の同級生と一緒に大船渡市の避難所に身を寄せた。
寒くて、怖くて、体の震えが止まらなかった。
翌日から母の姿を捜して避難所を回ったが、見つからない。
母は当日、隣の陸前高田市の実家に戻っていた。
同市の避難所で母方の祖母と再会すると、祖母の右手には固く握りしめられたような、真っ青なアザが残っていた。
「どうしたの?」と聞くと祖母は泣きながら言った。
「ごめんね。最後まで頑張ったんだけど、ダメだった」
大地震の直後、母は実家にいた祖父母を連れて、近くの菓子店の3階を目指した。
祖母と母はずっと手をつないでいたが、住民が祖母を3階へと引き上げようとした瞬間、津波が母を襲い、濁流が2人の手を引き離してしまった……。
母と対面できたのは、4月上旬。
宮城県沖で見つかった遺体の写真を見せられ、母だと確認した。
衣服は脱げてしまっており、左足に見覚えのある靴下をはいていた。
高校卒業後、無数の死と向き合うのがつらくて、大船渡を離れた。
東京の福祉関連の大学に通い、将来を考えた時、児童養護施設で働く児童指導員の道を選んだ。
千代さんは小学校や中学校で一時期、不登校だった。
そんな時、いつも支えてくれたのが、明るい性格の母だった。
「私もいつかお母さんみたいに、複雑な事情を抱えた子を支えたい」
大学卒業後、さいたま市内の児童養護施設に勤務したが、ある日、無性に生まれ育った大船渡が恋しくなった。
「母が大好きだった合足の海を見ながら暮らそう」
合足の実家に戻り、大船渡市内の児童養護施設に勤務して2年半、今度は大火災に見舞われた。
避難所生活を続け、3月5日に児童養護施設の仕事に復帰した。
様々な事情を抱えて養護施設で暮らす児童約30人は、上空を飛び交う消火活動のヘリコプターや消防車のサイレンに動揺し、混乱している。
長期間の避難で高齢者は疲弊し、避難所にはまだ、津波で家を失い、震災後に高台に建てた家が火災で焼かれた人もいる。
この地域はどうなるのだろう。でも、悩んでいる暇なんてない。
「あの時、私は守られた。今度は私が守る番だ」
(2025年3月取材)
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