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お金と仕事

プロ野球選手からボートレーサーへ、野田昇吾さんのネクストキャリア

社会人野球の選手時代の当時を「アマチュア野球の最高峰で通用しないのであれば、間違いなくプロではやっていけないと思いました」と思い返す野田昇吾さん=BOATRACE振興会提供
社会人野球の選手時代の当時を「アマチュア野球の最高峰で通用しないのであれば、間違いなくプロではやっていけないと思いました」と思い返す野田昇吾さん=BOATRACE振興会提供

目次

携帯電話で「明日、事務所に来て」と告げられたとき、瞬時に「戦力外通告だ」とわかった――。27歳でプロ野球選手を引退したあと、ボートレーサーとして活躍する異色のキャリアを歩む野田昇吾さん(31)。投手から体重を20kgも落とし、過酷な養成所生活を経てボートレーサーになった野田さんが、どのようにネクストキャリアを進んだのか、お話を伺いました。(ライター・小野ヒデコ)

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野田昇吾(のだ・しょうご)
1993年、福岡県生まれ。鹿児島実業高校卒業後、2011年に西濃運輸に入社し、社会人野球の選手としてキャリアを築く。2015年、プロ野球ドラフト会議で埼玉西武ライオンズから指名を受ける。2016年から2020年までの通算5年間で、中継ぎの左投手として144試合に登板。2020年に戦力外通告を受け引退。翌年、ボートレーサー養成所に第131期選手養成員として入所し、2022年、ボートレース戸田でデビュー。2023年、ボートレース戸田で開催のレースにて初勝利を挙げた。
 

中継ぎ投手へのシフトチェンジが転機に

福岡から、高校野球の強豪校・鹿児島実業に進学し、左投げの投手として甲子園大会でも登板した野田昇吾さん。小学生の頃から「高校卒業後に社会人野球の選手になってからプロになる」と、明確な目標を持っていたと話します。その背景には、憧れのプロ野球選手の存在がありました。

「同じ福岡出身で左投手だったダイエーホークスの杉内俊哉さんと完全に同じルートを歩もうと思いました。鹿児島実業高校から社会人野球の選手になり、その後プロ選手になった方です」

高校卒業後は西濃運輸(岐阜県大垣市)に入社し、硬式野球部に所属。22歳の時、プロ野球ドラフト会議で埼玉西武ライオンズから指名を受けました。

プロ選手になることを目標にせず、“なってからのビジョン”を常に描き、自分の役割を明確化し、絶え間なく努力し続けたことが夢を叶えた要因だと振り返ります。

「先発投手として活躍したい気持ちはあったんですけど、中継ぎ投手が向いているのではと思い、社会人選手時代にその方向にシフトチェンジしたことが大きかったかもしれません」

「侍ジャパン」の一員として力投する西武時代の野田昇吾さん=2017年11月、東京ドーム、柴田悠貴撮影
「侍ジャパン」の一員として力投する西武時代の野田昇吾さん=2017年11月、東京ドーム、柴田悠貴撮影

埼玉西武ライオンズの5年間については、謙遜しながらも、「5年で150試合近く出させてもらえたのは、中継ぎ投手としての立場を理解していたからかもしれません」と客観視します。

「自分の番が来てしまったな」

しかし5年前の秋のキャンプが始まる前日夜。

球団側から「明日、事務所に来て」と電話をもらった時、「戦力外通告だ」とすぐにわかったといいます。その時の心境は鮮明に覚えているそうです。

「毎年、戦力外通告を受ける人たちを見てきたので、最初に思ったのは『自分の番が来てしまったな』でした。5年間である程度中継ぎとして登板していたので、来年はまだチャンスがあるのではと予想していた分、衝撃が大きかったです」

野球に100%を出し切っていたので、引退後については全く考えていませんでした。それでも、電話から1時間後には「ボートレーサーになろう」と心に決めていたといいます。

というのも、社会人になってから、ボートレースの着順を予想する勝舟投票券(通称・舟券)を購入していた野田さんにとって、ボートレースは身近な存在でした。ボートレーサーの知人もいたため、どのような職業かの知識もある程度は持ち合わせていました。

全員、ゼロからのスタートになるので、公平にチャンスが訪れると考えたそうです。

電話があったその日に妻に「ボートレーサーになろうかなぁ」と伝えましたが、野田さんは「シカトされました」と苦笑いします。

全国に20カ所以上あるレース場の中で、野田昇吾さんがホーム拠点として練習しているのは埼玉県戸田市のボートレース戸田です=BOATRACE振興会提供
全国に20カ所以上あるレース場の中で、野田昇吾さんがホーム拠点として練習しているのは埼玉県戸田市のボートレース戸田です=BOATRACE振興会提供

当時、野田さんは結婚して1年足らずでした。働く妻からは「私が経済的に支えられるから、(野球選手を)思い切ってやっていい」と言ってもらっていたそうです。

しかし、ボートレーサーになりたいという次のキャリアへの妻の懸念を、野田さんはこう推測します。

「時速80kmほどのスピードが出るモーターボートに乗って水上を走るため、野球に比べて事故をした時のリスクが大きいです。また、ボートレーサーになるには、まず1年間養成所に入所しなければなりませんでした」

間もなく子どもが生まれる予定だったこともあり、「妻には、自分がいなくなることの不安もあったと思います」とぽつりと言います。

「それでも、僕の気持ちは変わりませんでした。自信があったからではなく、『ボートレーサーになる以外に道はない』と思ってしまいました。そう思ったら、とりあえずやってみないと気が済まない性格なんです」

毎日自宅に帰りたいと思っていた

ボートレーサーになるには、いくつか基準をクリアする必要があります。たとえば、「身長175cm、体重57kg以下(男子)」や、「30歳未満」の年齢制限もあります。

養成所に入所する選手の多くは、10代から20代前半でした。野田さんの同期の約7割が野球部出身者で、中には野田さんが登板した試合を観戦していた人もいたそうです。

その中で、20代後半の”元プロ野球選手”は、一目置かれる存在だったのでは、と問いかけると、「それどころじゃなかったです。養成所での1年間は本当にハードでした」との答えが返ってきました。

5、6人と寝食を共にする共同部屋で、毎朝6時に起床し寝具を整えるといった規律面でも厳しい指導があったそうです。帰宅できたのは、お盆と年末年始の2回だけでした。

「やること、覚えることが本当に多くて。ハードだとはわかってはいたのですが、正直、毎日(自宅に)帰りたいと思っていました」

ボートに初めて乗ったのは入所してから1カ月後でした。一人きりでボートに乗った時のことを「めちゃめちゃ怖かった」と振り返ります。

「乗り心地がとても不安定で、『これでレースすんの⁉︎』って。モーターがありプロペラが回っているので、転覆した時の恐怖心もありました」

とはいえ、野田さんは元プロ野球選手です。同期と比較すると、体格や身体能力にアドバンテージがあったのではないでしょうか。

「それが全く(苦笑)。入所には体重制限があったので、直前に75kgから50kg前半まで20kg減量していました。筋肉も大幅に落としたので、自分の体だけど、自分の体じゃないというか。身体能力を発揮できず、頭もよく回っていない状況でした」

養成所では、実際のレース期間と同様に電子機器は使用禁止で、家族を含む外部と連絡をとる際は手紙や所内にある公衆電話を使用するのが決まりでした=BOATRACE振興会提供
養成所では、実際のレース期間と同様に電子機器は使用禁止で、家族を含む外部と連絡をとる際は手紙や所内にある公衆電話を使用するのが決まりでした=BOATRACE振興会提供

養成所では年6回の試験が課せられ、ボートの操縦やモーターの整備などの知識が問われました。毎回の試験で、三つの科目のうち二つで欠点(赤点)を取ると、容赦無くクビを言い渡されるという過酷な状況でした。

入所の段階で、野田さんがプロ野球選手からボートレーサーに転向することが報道されていました。「何としてでも合格しなければ」というプレッシャーを追い風に、目の前の課題に取り組んでいったといいます。

意外と時間はないことを伝えたい

無事に卒業し、晴れてボートレーサーとしてデビューする資格を勝ち取った野田さん。卒業してまず思ったのは「やっと家族と過ごせる」でした。

小さい子どもを含めた家族がいる身としても、レース前は必ず家族のことを考えるといいます。

「妻は競技に危険が伴うことを心配している部分はあると思いますが、そのことは口にしないですね。僕の『やりたい』という気持ちを応援してくれています」

デビューしてから3年が経ちましたが、今でも「デビュー戦が最も思い出深かった」と語ります。

「当日、プロ野球時代からのファンの方が本当に多く観に来てくれました。ボートのモーター音が大きいので、周囲の音はあまり聞こえないのですが、その時は応援の声が耳に届きました。『こんなに来てくれたんだ…』と、ただただ嬉しかったですね。レース内容としては悔しさが残ったのですが、無事にゴールできました」

入所するまでの半年間、毎日10km走り、食事制限をして20kg減量した野田昇吾さん。その後も、50kg前半の体重でキープしています=BOATRACE振興会提供
入所するまでの半年間、毎日10km走り、食事制限をして20kg減量した野田昇吾さん。その後も、50kg前半の体重でキープしています=BOATRACE振興会提供

野球選手としての経験は、実はあまり活かせていないと苦笑する野田さん。ボートに乗っている時は体幹を使うものの、それ以外ではモーター整備などの技術面がレースの結果でものをいうからです。

たとえ身体能力がなくても、メカニックのスキルに長けていたらスピードが出るため、「どこで(勝つ)きっかけをつかむか、本当にわからない競技なんです」と言います。

このボートレーサーを引退した後のキャリアについて尋ねると、それは未定とのこと。

「先を見るというよりも、一走ずつ大事に走るのが大切だと思っています。夢は、最も注目されるレースの優勝戦に乗ることです」

最後に、若手アスリートに、こんなメッセージを寄せてくれました。

「思い立ったらすぐ行動するべきです。プロ野球の引退時、僕はボートレーサーになるラストチャンスの年齢にさしかかっていました。悩むことも大事な時はありますが、意外と時間はないことを伝えたいです」と言います。

「やりたいことをまずやってみる、何でもチャレンジしてみることは大事なのではと思います」

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