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「戸籍がない」無銭飲食した50代男性の半生、名前が〝自称〟の理由
日々、行われている膨大な数の「裁判」。刑事裁判の担当記者がその中で気になったのは被告名が「自称」となっている、ある無銭飲食の事件でした。裁判や男性への取材を通して見えてきたのは、壮絶な半生と、事件の本当の〝闇〟でした。(朝日新聞記者、金子和史)
東京地裁の刑事裁判の取材を担当している筆者は、裁判の予定が書かれた「開廷表」を日々チェックします。膨大な数の裁判のうち、どれを取材するかを決める上で欠かせない作業です。
数十枚のA4用紙にずらりと並ぶ被告の名前や罪名。そのなかで、名前が「自称」となっている被告を見つけました。
通常、裁判にかけられる被告の身元は、人違いがないよう捜査当局が確認しています。そのため、開廷表ではほとんど「自称」という表記は見られません。理由が気になり、法廷に行ってみることにしました。
初公判の日、刑務官2人に挟まれ、ジャージー姿で法廷に現れた男性。起訴内容は今年6月、東京都内の焼き肉店で7150円分の飲食代を支払わなかったというものでした。男性は小さな声で「間違いありません」と認めました。
「身上・経歴は戸籍がないため不明」
事件の経緯をまとめた「冒頭陳述」で、検察官はこう説明しました。つまり、男性には身元を証明する公的な資料がなく、名前を「自称」とせざるを得なかったのです。
戸籍がない状態で、どのように生活していたのか。答えの一部が、法廷で本人の話を聞く「被告人質問」で明らかになりました。
無戸籍のため、学校に通えなかった。建築の仕事をしたが腰を痛めて、公的医療保険に入れないため通院もままならず、働けなくなり、困窮した。事件当時の所持金は150円。3日間、何も食べておらず、空腹に耐えかねて罪を犯した。
男性はゆっくりと語りました。そして、「母親を恨んでいた」とも口にしました。
一般的には、生まれてから14日以内に保護者が役所に出生届を出すことで戸籍ができます。男性の場合、親が出生届を出さなかったため、無戸籍となったとみられます。
男性は人生で様々な困難を強いられましたが、その大きな要因となった無戸籍は、男性本人の意思とは何の関係もありません。もちろん無銭飲食は許されませんが、法廷を傍聴しながら「理不尽さ」を感じました。
法務省の調査によると、昨年12月10日時点で無戸籍の人は全国に707人いるといいます。各地の法務局や自治体の窓口へ相談があった件数などをもとに集約していますが、正確な人数の把握は難しく、実際はもっと多いと指摘する専門家もいます。
無戸籍であっても義務教育は受けられますが、当事者らが行政に相談をしなければ教育を受ける機会を失いやすく、就労なども不安定になりやすいことが課題になっています。
男性は自身の人生をどう受け止めているのか。法廷で明らかにならなかったことも多く、直接話を聞きたいと、筆者は初公判後、東京・小菅にある東京拘置所に向かいました。
アクリル板で仕切られた面会室。男性は当初、「なぜ私のところに?」と戸惑う様子を見せました。取材の趣旨を説明すると、質問にぽつぽつと答え始めました。
母と2人で暮らした幼いころは「誰か来たらいないふりをする」と言われて、1日のほとんどを家で過ごしたこと。外の景色を見ながら働ける「タクシーやトラック運転手になりたい」と夢見ていたものの、免許証も作れず、仕事の選択肢が多くなかったことなどを教えてくれました。
社会から「いない」ものとされたその半生は、想像を絶するものでした。人生を「馬鹿らしい」と思った時期もあると語る男性。その口調からは、どこか諦めのようなものを感じました。
判決で男性に執行猶予はつかず、懲役1年6カ月の実刑とされました。刑を終えて刑務所から出るとき、男性はまだ50代後半。その先も人生は続きます。言い渡しが終わり、法廷を出ていく男性の後ろ姿が、筆者の頭に残っています。
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裁判を通じて見えてくる社会の「いま」に光をあてます。関連記事では男性の子ども時代から事件までの半生をたどります。