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#34 大河ドラマ「光る君へ」たらればさんに聞く

藤原隆家が大活躍、刀伊の入寇 「追撃のラインを設定」後世にも評価

京都府宇治市にある紫式部像=水野梓撮影
京都府宇治市にある紫式部像=水野梓撮影

大河ドラマ「光る君へ」の最新回では、九州で起こった「刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)」が描かれました。藤原隆家が活躍する姿も描かれ、平安文学を愛する編集者のたらればさんは「『追撃のラインを隆家が設定した』という記録もあって、後世に評価されている理由のひとつ」と指摘します。(withnews編集部・水野梓)

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合戦シーンを見ることになるとは…

withnews編集長・水野梓:ついに描かれましたね、「刀伊の入寇」! 竜星涼さん演じる藤原道隆が大活躍でした。

たらればさん:まさか「光る君へ」で合戦シーンを見ることになろうとは……。あれは寛仁三年(西暦1019年)3月~4月に起こった「刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)」という事件で、日本側の司令官として活躍したのが中関白家の藤原隆家です。

水野:伊周と定子さまの弟で、道長にとっては甥っ子にあたる人物ですね。
たらればさん:「刀伊の入寇」は「元寇」に次ぐ規模の日本列島への外敵侵略事件であり、平安時代最大の外交危機といえます。対馬と壱岐と福岡に海賊のような船がたくさんやって来て、侵略を試みたものです。

関幸彦著の『刀伊の入寇』(中公新書刊)によると、3月に現れた刀伊の兵船は「五十余艘(そう)」で、一艘あたり20~60名が乗っていたそうなので、2500~3000人くらいの兵力が攻め込んできた…というイメージのようです。

水野:よく撃退できたな…と思ってしまう規模ですね。

たらればさん:対馬、壱岐、能古島と攻め入られていきますが、命からがら壱岐から逃げてきた島分寺(国分寺)の常覚という僧が第一報を大宰府へ伝えたことで撃退の体制が整えられた、といわれます。

その際に大宰府で総司令官として対応にあたったのが藤原隆家ですね。

自身が引き連れていた武家貴族と現地の武士を統率してよく戦い、中央に顔も利くので報告や事後処理、論功行賞も迅速で適切だったと言われています。

水野:「よくやった!」「よく来てくれた!」とポジティブな言葉で武士たちを励ますのが「できる上司…!」と思いました。

「対馬の先は高麗の海だ。そこまで行けば、こちらから異国に戦を仕掛けることになる」というセリフがありましたよね。

たらればさん:この「追撃ラインを隆家が設定した」という記録もあって、ここらへんも後世に評価されているようです。

水野:なるほど。
たらればさん:藤原隆家が実資へ送った書状には、「(追撃は)壱岐・対馬等の島に到るべし。日本の境に限り、襲撃すべし。新羅の境に入るべからざる由、都督(ととく)、誡(いまし)め仰する所なり」と記されていて、この内容が実資の『小右記』に記録されています。

これって、「当時の上級貴族における【日本】という認識と範囲が記録に残されている」ということですよね。

隆家は「壱岐・対馬までは日本の支配領域だけど、それより先へ追撃すると新羅(実際は高麗)とモメるから、追いかけちゃダメですよ」と言っているわけで、当時の中央政府における高級官僚(貴族)の認識では、「日本の境」の西端は「壱岐・対馬」だった、と伝わるわけです。

水野:その後、隆家はどうなるのでしょうか?

たらればさん:刀伊を撃退した後、隆家はこの年の12月に帰京して、大宰権帥(大宰府の実質の長官)の後任は藤原行成です。

隆家はしばらく京で生活しますが、長暦元年(西暦1037年)に再び大宰権帥に任ぜられています。本人の希望かもしれませんね。よほど九州が気に入ったのかな。
 

自伝のような「紫式部集」につながる勧め

水野:しかし最新回は……まひろ(吉高由里子さん)と大宰府で再会した周明(松下洸平さん)の胸に矢が……という衝撃的なシーンで終わりましたが……。ショックでした……。

たらればさん:びっくりしました……まひろに「帰ってきたら伝えたいことがある」と言っていた時点で嫌な予感はしていたんですが……直秀もそうですが、オリジナルキャラに迂闊に感情移入するとひどい目に遭いますね……。
水野:その前に、『源氏物語』という長文を書ききったまひろが、「もう何かを書く気力もない」という抜けがらのようになってしまっていました。

そこで周明から「お前がこれまでやってきたことを残すのはどうだ」という問いかけがありましたよね。これは……?

たらればさん:面白い流れでしたね。おそらくこれは和歌集『紫式部集』のことなのでしょう。

『紫式部集』は自選集で、娘時代に詠んだ歌から順に時代に沿って和歌が並べられていて、それぞれ状況説明としての詞書が添えられており、紫式部の自伝のように読めます。

水野:なるほど…! 周明に勧められたことをこの後、まひろはやっていくんでしょうか…。

たらればさん:あと放送は2回ですけどね…! どうたたむのか……。

水野:まったく情緒が追いつきません。

彰子サロンは「週刊少年ジャンプ」だった?

水野:そして赤染衛門(凰稀かなめさん)がいよいよ『栄花物語』を書き始めましたね。『枕草子』や『源氏物語』とは違う、仮名で初めて歴史書を書くんだ……、と意気込みを語っていました。

道長の誕生時からではなく、なんと宇多天皇の代から、じっくりと……。

たらればさん:宇多帝の生没年月は西暦867年6月~931年9月で、道長は西暦966年~1028年ですから、だいたいざっくり百年前。現代に置き換えると、石破政権の政治を紹介するのに関東大震災から書き始める……みたいなイメージでしょうか。

水野:壮大な歴史をつむぐことになりそうです。
水野:改めて彰子サロンには有能な女房ぞろいだなと思いました。

たらればさん:ドラマ「光る君へ」では、道長が一本釣りでまひろへ帝の気を引く『源氏の物語』を書かせたことになっていましたが、この描写について、ある漫画家さんが「実際は、道長はもっといろんな女房に声をかけて、いろんな作品を書かせていたと思う」と仰っていたんですよね。

水野:ふむふむ。

たらればさん:一条天皇を呼び寄せるために作品を書くのであれば、もっと何人もの女房に書かせた上で、面白いものが生き残ったのではないかと。現代におけるマンガ誌のシステムですね。とてもリアルだし、納得できる推測でした。

水野:たしかに現実的に考えると、保険をかけるでしょうし、そうなりますよね(笑)。

たらればさん:やっぱり『週刊少年ジャンプ』という器と仕組みがあってこその『鬼滅の刃』であり『ONE PIECE』なんじゃないか、ということですよね。すばらしい作品が集まって、才能が競い合って、なかにはすぐ終わる連載も残念ながらあって、そこで『源氏物語』のような作品が生まれる……と。

水野:作品を創作していくというのはそんなに容易なことではない、ということですね。

たらればさん:実際どうだったかはもちろん分かりませんけれど、道長は才女たちを集めていたわけですから、そこでクリエイターたちが切磋琢磨してすごい作品ができた、という考えは、なるほどなぁ、いつの時代も変わらないんだな…と思います。
◆これまでのたらればさんの「光る君へ」スペース採録記事は、こちら(https://withnews.jp/articles/keyword/10926)から。

次回のたらればさんとのスペースは、12月15日21時から、「光る君へ」最終回後に開催します。

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