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時給800円のゲーセンに救われた… 閉館の商業施設に寄せた思い出

「一本の映画をみたような、不思議な……。」

長年の歴史に幕を下ろしたイトーヨーカドー津田沼店=9月29日、千葉県習志野市
長年の歴史に幕を下ろしたイトーヨーカドー津田沼店=9月29日、千葉県習志野市 出典: 朝日新聞

目次

あてもなく新京成線に乗り、新津田沼駅で降りた――そして、そこで働き始めて……。閉館する商業施設の「思い出」を市民団体が募っていたところ、閉館の数日前に寄せられたのは、2000字を超えるエッセイでした。全文を貼り出したところ、SNSで大きな反響を呼びました。

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終了直前に届いた2千字

「随分詩的な文章だな、と書き出しに驚きました」

長文のエッセイが届いた時のことを、活動名「明里(あけさと)」さんはそう振り返ります。

明里さんが携わる「習志野の歴史を語る会」では、9月末に閉館した「イトーヨーカドー津田沼店」(千葉県習志野市津田沼)にまつわる思い出や写真を募集し、8月末から閉店の9月29日まで飲食エリアで展示会を開催しました。

一般の人からも思い出や写真が20件ほど集まり、津田沼周辺の歴史を手書きでまとめた年表などと共に掲示をしていたといいます。

その展示会が終了する数日前のこと。明里さんの元に、「私は、高校を卒業してすぐに就職した」から始まる、2000字を超えるエッセイが届きました。

これまでに届いた思い出の多くは4、5行に収まるくらいの短いエピソード。それと比べると、突出して長い文章でした。

「イトーヨーカドー津田沼店」で行われた展示の一部=明里さん提供
「イトーヨーカドー津田沼店」で行われた展示の一部=明里さん提供

「さようなら、ありがとう」そして…

エッセイは、2000年はじめに20歳ぐらいだった筆者が綴ったもの。高校を卒業後、就職したときの思い出から始まります。

地方出身者が集まった会社に入り、「とにかく休日というものがない」と、働きづめ。「食事もろくに摂れなかったたため、がりがりに痩せた」状態だったといいます。

そんな困窮を見かねた社外の人から「逃げろ」と言われ、「あてもなく新京成線に乗り、新津田沼駅で降りた」。その先にあったのが、「イトーヨーカドー津田沼店」だったのだといいます。

たまたま見かけたゲームセンターで、時給800円で働き始めた筆者。あまり忙しい職場ではなかったと綴りますが、それでよかったのだといいます。

「私がなんとか再起をはかれたのは、あそこで働いた期間があったからだ。変に忙しい職場に入っていたなら、きっと潰れてしまっていた」

その後、別の職を見つけ、ゲームセンターの仕事は辞めたといいます。

店内での思い出をいくつか振り返ったあと、最後はこんな一文で締めくくられています。

《さて。ここまで長々と書いてきてどう締めればいいのかわからない。結局、歳ばかり重ねて、あの頃からまったく成長などしていない。
「さようなら、いままでありがとう」
でいいのだろうか。
あと、「寂しい」と「もう大丈夫」を付け加えて文を締めたいと思う》

「映画のような…」 Xでも拡散

エッセイを受け取った明里さんは、読み進めるうちにその世界観に引き込まれていったといいます。

「これは素人の文章なのか?と思いました。情景も浮かぶし、一本の映画をみたような、不思議な……。いい文章を送ってもらったなと感じました」と、急きょ、全文の展示を決めました。

すると、このエッセイの存在に気づいた来場者が写真とともにXで投稿し、それが広く拡散され、4万7千以上の「いいね」がつきました。

「あの時逃げろと言ってくれた方がいて、この方が津田沼で降りられて、そこにイトーヨーカドーがあって良かった」「久しぶりにこんなに良い文章に出会えた気がする」といったコメントで紹介されています。

9月29日、閉店を見届けた明里さん。イトーヨーカドー津田沼店を「不動の存在だった」と表現します。

イトーヨーカドーを含め、複数の商業施設が競合していた時代は「津田沼戦争」とも評されましたが、現在は閉館が続いています。

明里さんは「次の時代に入ったのかなと、寂しさと期待が入り交じっています」。

最終日に展示会を訪れた人たち=明里さん提供
最終日に展示会を訪れた人たち=明里さん提供

「肉親にも隠していた」

エッセイの筆者で、現在は都内に暮らす小山征二郎さんに連絡をとると、「メールでなら」と取材に応じてくれました。

津田沼店が思い出を募集していることは、明里さんのXの投稿を見て知ったそう。

「あの頃、ひどく困窮していたことは肉親にすら隠していましたので、ヨーカドーに救われたのは私以外誰も知らないことでした。たぶん、ずっと誰かと共有したかったのだと思います」と小山さん。

「投稿するタイミングが遅かったので、掲示されない可能性もありましたが、『習志野の歴史を語る会』の人にだけでも届けばいいな、くらいの気持ちで送りました」

「イトーヨーカドー津田沼店」で行われた展示の一部。津田沼周辺の歴史を手書きで紹介している=明里さん提供
「イトーヨーカドー津田沼店」で行われた展示の一部。津田沼周辺の歴史を手書きで紹介している=明里さん提供

7階にゲームセンターはあったのか

また、エッセイの中では、自身が働いていたゲームセンターをこんな風にも記した小山さん。

「あのゲームセンターはたぶん、七階のマクドナルドの前にあったはずだが、いくら検索しても情報は出てこない」

イトーヨーカドーに問い合わせてみると、小山さんが働いていた2002年ごろには、マクドナルドが出店していたことが確認できました。

さらに、マクドナルドと同じ階に、ゲームセンターである「ファミリーランド友栄」が出店していたことは間違いないものの、出店していた期間はわからなかったそうです。

SNSでも大きな反応があったことに、小山さんは「本来、あの展示場へ訪れた人しか目にしないはずのものでしたので、こうして大きな反響をいただけるのは想定していませんでした。好意的な意見や感想が多く、嬉しい限りです」と喜びます。

「冒頭のブラック企業の話は、嘘呼ばわりされるのではないかと不安でもありました。しかし同世代と思しき人たちが『そういう時代だった』という声をあげてくださったおかげか、嘘呼ばわりされることはなく安心しました」と話しています。

エッセイ全文

私は、高校を卒業してすぐに就職した。生まれ育った静岡県の山奥から、千葉県松戸市へ。
やたらと地方出身者ばかりを集める会社だった。会社名義でアパートを借りてくれ、家賃まで払ってくれる。なんていい会社に入れたのだろう、というのは若さゆえの勘違いだった。
とにかく休日というものがない。シフト上で「休日」とされている日にはタイムカードをうってはいけない。それだけのことだった。
そんな環境でも二年間勤めたのは、単に逃げられなかっただけだ。会社名義でアパートを借りているので、職を失うというのは住居を失うのと同義だった。
食事もろくに摂れなかったため、がりがりに痩せた。食事の時間があるならば、そのぶん寝る時間にあてたかった。となると歯など磨くはずもない。虫歯が痛み、前歯を一本失ったが、それすらどうでもよくなっていた。
関連会社の男性社員から「借金してでも逃げろ」とまで言われ、ようやく逃げたのが二十歳の頃。
振り返れば、その二年間に休日という休日はなく、七百連勤以上を続けていたのだ。
千葉県内に土地勘などなかった。あてもなく新京成線に乗り、新津田沼駅で降りた。新津田沼を目指したわけではない。単に人がたくさん降りたから、つられて降りた。それだけだった。
駅とイトーヨーカドーがくっついているのは驚きだった。そんな場所がこの世にあるとは知らなかった。
そのままイトーヨーカドーへ入った。エスカレーターで上の階へあがると、そこにはゲームセンターがあった。ゲームセンターといっても、小さな子どもをメインターゲットにしたもので、真ん中には大きなトランポリンが設置されていた。
ここで働きたい。そう思ったのは、子どもが好きだとかそんな理由ではなかった。暇そうだったからだ。もう一生懸命働きたくなどない。この二年間で、一生分働いた。そんな気分だった。
求人誌で見つけたのか、インターネットで見つけたのかはいまとなっては記憶が曖昧だが、そこのゲームセンターは求人広告を出していた。アルバイトで、週に三日程度から可。
とはいえ、住所不定の若造を雇ってくれるとも思えない。先に住居を探した。
幸いなことに、新しい住居はすぐに決まった。駅から遠い、築五十年超の木造アパート。壁を叩けばゴキブリが五、六匹出てくるような部屋だったが、ようやく自分の居場所を手に入れた気分だった。
その住所を履歴書に書き、就職の際に両親が買ってくれたスーツに身を包み、伸びたままだった髪は自分でカットした。がりがりの体と失った前歯はどうしようもなかった。
鏡を見て、「まあ、これは雇わないだろうな」と自分でも思うほどだったが、面接ではなんとなく好感触を得た気がした。
そして数日後、採用が決定したと連絡があった。なぜ採用されたのかは知らない。他に応募者がいなかったのかもしれない。
赤いポロシャツに、黒いズボン。センスがいいとは言いがたい制服だったが、不満はなかった。
とにかく来客数が少なく、やることと言えばクレーンゲームの景品の補充だとか、当時流行っていたムシキングとかおしゃれ魔女などのカード補充とか。
あとはトランポリンで遊びたい子が来たら対応をした。たしか五分で百円。十分だったかもしれない。詳細は覚えていないが、百円玉を握りしめた子どもが目をきらきらさせながら声をかけてきたのは覚えている。
一度の勤務が四時間程度。それを週に数日。時給はたしか八百円ほど。食っていけるはずもなかったが、しばらくはその生活を続けた。とてももう、まともに働く気力などなかった。
借金がある程度膨らんでから、ようやく他にも仕事を始めた。コンビニ、警備員、チラシのポスティング、宅配便の仕分けなど。非正規雇用ばかりを山ほど抱えて、なんとか借金は返した。
ゲームセンターでのアルバイトは続けるつもりだったが、近いうちに閉店すると耳にした。一時間あたりの売り上げが私の時給を下回っているような有様だったので、遅かれ早かれそうなるだろうとは思っていた。
閉店まで続けようかとも考えたが、そのときに面接を受けた倉庫作業の会社で正社員の誘いがあったので、そのまま辞めてしまった。辞めた後、しばらくは営業をしていたようだったが、たしか一年経たずに閉店してしまった。
私は就職し、転職し、結婚して離婚した。また就職して、転勤して、いまは東京の西のほうで暮らしている。
津田沼まで片道一時間強。あまり気軽には来れなくなってしまった。
あれから約二十年。私はすっかりおじさんになってしまったが、おじさんになれてよかった。いま振り返ると、あの頃の自分はいつ人生を終わりにしてもおかしくはなかった。
あそこで働いたのは一年だったか、二年だったか。もっと長かったかもしれないが、まったく思い出せない。
あのゲームセンターはたぶん、七階のマクドナルドの前にあったはずだが、いくら検索しても情報は出てこない。
まるで幻だったかのように、私自身にも曖昧な記憶しか残っていない。検索しても、トランポリンがあったのは屋上だという情報ばかり。屋上ではなかったのはたしかなのだが。
ともあれ、私がなんとか再起をはかれたのは、あそこで働いた期間があったからだ。変に忙しい職場に入っていたなら、きっと潰れてしまっていた。
しかしまさか、イトーヨーカドー津田沼店自体がなくなってしまうとは。
なんとなく、イトーヨーカドー自体はずっとそこにあってくれるような気がしていたので、いつでも行けると思い込んでいた。
二十代前半の、あの時期の私の中心にはイトーヨーカドー津田沼店があった。書店にもよく寄ったし、四本の親知らずのうち三本はヨーカドー内の歯科で抜いてもらった。
あと、誰も気にしていないようなことだけれど、トイレの洗面台の脇に置かれた小さな花瓶に花が生けてあったのが好きだった。造花かもしれない。ただ、誰かの気遣いがそこにあった。トイレ自体古かったが、きちんと清掃しているのはよくわかった。私とは違い、仕事熱心な人が清掃を担当していたのだろう。もう何年も訪れていないので、最近はどうだったのかは知らない。
テナントが徐々に撤退していったのは伝え聞いていだが、それがなんだか思い出の場所が徐々に衰弱していくようで受け入れられなかった。
さて。ここまで長々と書いてきてどう締めればいいのかわからない。結局、歳ばかり重ねて、あの頃からまったく成長などしていない。
「さようなら、いままでありがとう」
でいいのだろうか。
あと、「寂しい」と「もう大丈夫」を付け加えて文を締めたいと思う。
小山征二郎さんが、イトーヨーカドー津田沼店閉館に寄せたエッセイ

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