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光が丘公園〝赤い看板〟秘められた「かつてアメリカだった」街の歴史

光が丘公園の屋敷森の中の赤い看板には「かつてアメリカだった」街の歴史がある。=2024年8月9日、朽木誠一郎撮影
光が丘公園の屋敷森の中の赤い看板には「かつてアメリカだった」街の歴史がある。=2024年8月9日、朽木誠一郎撮影 出典: 朝日新聞社
東京都練馬区の光が丘公園の中にひっそりと佇む、錆だらけの赤い看板。同公園は、戦時中に特攻隊の出撃基地ともなった成増飛行場、戦後は米軍の家族住宅「グラントハイツ」として利用された歴史がある場所です。そんな歴史が文字として刻まれ、今に残る“遺構”を紹介します。(朝日新聞デジタル企画報道部・朽木誠一郎)
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「かつてアメリカだった」街の跡

<都営大江戸線の終着駅の名前としても知られる練馬区「光が丘」。その中にあり、約60万平方メートルと、23区内で4番目の広さを誇る公園が光が丘公園です。

この公園、実は、戦時中に特攻隊の出撃基地ともなった成増飛行場、戦後は米軍の家族住宅「グラントハイツ」として利用された歴史がある場所です。

そんな公園内のテニスコートの東側には「屋敷森(やしきもり)」というエリアがあります。この中には、当時の看板が今も残され、英語で“駐車禁止”の文字が書かれています。>

練馬区などを取材しました。光が丘は、かつて農村地帯として栄えていた土地。その風景を一変させたのが、1941年から始まった太平洋戦争です。「成増飛行場」として飛行場が建設されることになり、1943年6月に住民の立ち退きがあり、8月に工事に着手、4か月後の12月には使用を開始するなど、急な動きがありました。

同飛行場では大型の戦闘機の他、特攻隊も編成されました。米軍の標的となり、1945年8月の終戦後まもなく成増陸軍飛行場に米軍兵士が数台のジープで乗りつけ、まだ残っていた日本の戦闘機を焼き払ったということです。

1947年には占領軍による飛行場の接収作業が始まり、総面積180万平方メートルの敷地に、米軍家族の住宅地「グラントハイツ」として米軍家族宿舎や学校・教会・劇場・売店・将校クラブ・下士官クラブなど730棟が作られ、“アメリカの街”が生まれました。

完成したのは1948年6月。この名前は、南北戦争後に第18代アメリカ大統領になったグラント将軍に由来しています。多くの日本人も、メイドやボーイ、運転手としてここで働いていました。

建設にあたり、資材などを運ぶ目的で、上板橋駅から全長6.3キロメートルの鉄道が引かれました。鉄道の名は、当時の建設司令官の名をとって「ケーシー線」と名づけられ、「ケーシー駅」もありました。

1959年に居住者の立川・横田基地への移転が始まり、このころから練馬区をはじめとして関係者の返還運動が活発になりました。国や東京都との折衝など紆余曲折があり、1973年に全面返還。広大な光が丘公園は、この時に整備されることが決まったものです。

グラントハイツの総面積の約1/3が公園として確保され、1981年から一斉に周辺の整備が開始されました。以降、小、中、高校が15校、ショッピングモール、公団、公社、都営住宅12000戸の都内有数の大団地となっています。

屋敷森の看板は、今では貴重になった、この場所がかつて「アメリカの街」だったことを示す“遺構”となっています。

【参照】
・練馬わがまち資料館
https://www.nerima-archives.jp/
・練馬区 光が丘
https://www.city.nerima.tokyo.jp/kankomoyoshi/annai/rekishiwoshiru/nerimanokonjaku/chomei/choummei-h.html
・練馬区報 令和5年9月11日
https://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/koho/kuho/backnumber/2023/20230911.files/page6.pdf
・公益財団法人 東京都公園協会 光が丘公園
https://www.tokyo-park.or.jp/park/hikarigaoka/index.html
・総務省 練馬区における戦災の状況(東京都)
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_18.html

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