紫式部を主人公とした大河ドラマ「光る君へ」では、史実と違う点がたびたび話題になっています。清少納言を推す編集者・たらればさんは「これを機会に、本を手にとってほしい」と話します。物語の創作論やキャラクターの描き方、読者の受け止め方について語り合いました。(withnews編集部・水野梓)
withnews編集長・水野梓:最新回では、「定子さまの光の部分だけ残したい」と文章を書いたききょう(清少納言/ファーストサマーウイカさん)が、まひろ(紫式部/吉高由里子さん)と表現について語るシーンがありましたね。
たらればさん:後に源氏物語を書くまひろは、「影があってこそ光がより輝く」と語っていて、その理屈も分からないでもありません。
でも、政争のど真ん中にいて、まわりじゅうの陰口や、父と兄から「皇子を産め」と壮絶に迫られた場面を知るききょうとでは、知る影の深さに違いがあるわなぁ……と思いました。
「あなたあれ直に見ても言えんのそれ」という。あれは「影」というよりも「闇」なのでしょうね。
水野:ききょうは、ドキュメンタリーではなく定子さまとのすばらしい思い出を記憶に残しておきたかった、ということですよね。「物語」として光と影を描く紫式部とはアプローチが違うんだなぁと思いました。
たらればさん:今後ドラマでどう描かれるか分かりませんが、枕草子は敗者の物語であり、だからこそ勝者(道長側)が「これは流通させても問題ないな」という内容でなければ残せません。
文学的な面だけでなく、政治的な面でも、「影は書かない」という清少納言の判断のおかげで、枕草子は千年残ることができたのだと思います。
水野:大河ドラマでは、まひろの娘・賢子の父が藤原道長(柄本佑さん)という展開になり、たびたび史実との違いが話題になります。
源氏物語にも不義の子が登場しているため、SNSでは「自分が経験していなくてもリアルに描けるのがクリエイターではないか」といった批判を目にしました。
わたし自身も、体験していないことを取材して記事にして…という立場なので、体験していなくてもリアリティーをもって真に迫ることは描ける、と考えているタイプなんです。たらればさんはどう思いますか?
たらればさん:「リアル」と「リアリティー」の違いということですよね。「リアリティー」だけが「リアル」を超えることができます。「師の指先を見るな、師の指す先を見よ」ということかなぁと思います。
たらればさん:現実問題として、私たちが経験したことって自分が経験したことでしかなくて、誰かに話そうとしたときに「どこに共感してもらえるか」を探りながら、普遍化して話すわけじゃないですか。
そもそも源氏物語の古文って、主語も少ないし、間(行間や文脈)を想像させる余地がたくさんある文章です。
その「文脈」を埋めるのが何かといったら、読み手が感じる「リアリティー」なんだと思うんです。「リアル」ではなく。
水野:ふむふむ。
たらればさん:例をあげると……たとえば「源氏物語」の原文といわれるものには、桐壺更衣が息子(光源氏)を可愛がった、だとか、光源氏に母(桐壺更衣)から可愛がられた記憶がある、といった記述はまったくないんです。
でも、源氏物語をマンガで描いた大和和紀先生の「あさきゆめみし」では、光源氏には母・桐壺更衣の面影の記憶や、愛された記憶がばっちりあるんですよ。つまり「源氏物語」原文の光源氏は母の愛を知らずに育ち、「あさきゆめみし」版の光源氏は母の愛を知って、そのうえで失っている。
みなさんご存じのように光源氏という人物は多情な男で、作中、一人の女性では満足せずに、姫から姫へと渡り歩いています。そうした性格は、彼が母の愛を知らなかったからなのか、知っていて失ったからなのか。
大和先生は、「知っていて失ったほうが影響が大きいのではないのか」と考えたわけですね。これは「経験」を超えている話なのだと思います。経験していなくても「こっちのほうがつらいんじゃない?」という描き方をして、読者がそこに「リアリティー」を感じているわけですね。
今回の「光る君へ」は、「紫式部の物語」というよりは「まひろの物語」であり「大石静の物語」であり、それをわれわれが普遍性をもって受け入れられるかどうか、ということなんじゃないですかね。
水野:なるほど。
たらればさん:「リアリティー」については、以前、おかざき真理先生から伺った話も参考になると思います。おかざき先生が、空海・最澄を描いたマンガ『阿・吽』の制作の時に考えていた、と仰っていた話です。
空海や最澄といった最高峰の高僧が、修行の果てに何を考えていたかなんて、仏教徒ではないわれわれには分かりませんよね。おそらくたぶん、漫画家であるおかざき先生も分からない。
それでも「修行の果てに辿り着く何か」を描くとき、おかざき先生は、「真理の話は書かない」と決めたそうなんですよ。真理そのものでなく、「真理を目指す人の話」なら描ける、と。
これ、伺ったときに鳥肌が立つくらいしびれました。
たらればさん:そしてもうひとつ、「真ん中を空けておく」とおかざき先生はおっしゃっていて。まわりを丁寧に描いて、真ん中を空けておくと、その「真ん中」を読者が想像してくれる、っていうんですね。
水野:読者が「真ん中」を想像する、ということは源氏物語でもやっていそうですね。
たらればさん:わたしたちも今回のドラマ「光る君へ」の登場人物に対して、「きっとこういう気持ちだったに違いない」と、セリフ以上のことを補って受け止めていますよね。一喜一憂しながら、この先も半年振り回されるのか、と思いながら(笑)。
水野:もうひとつ、たらればさんに聞いてみたかったことがあり…。「光る君へ」では、一条天皇が定子さまへの執着のために政をないがしろにしている――ように描かれていますよね。
たらればさん:いや……これは複雑なものがございます。思うところは山ほどありますが、作劇上の都合なんだろうな、と……。
「賢帝」と呼ばれたなど、一条帝の政治については諸説あり、いろいろな資料が残っていますが、すくなくともわたくしが知るかぎり、「一条帝が定子の居場所(職の御曹司)に入り浸って政をないがしろにした」という資料はありません(藤原実資の日記『小右記』に、「一度出家した后を呼び戻すなんて前代未聞だ」と嘆いている記述はある)。
「光る君へ」における一条帝と定子の、やや幼く見える悲恋の様子は、ドラマの作劇上の都合だと分かっているので、思うところはたくさんありますが、納得はしています。
水野:ドラマだと、まさに定子さまが傾国の美女であるように感じてしまいますよね。
たらればさん:実際に、定子さまが「傾城(けいせい)の后」である、というウワサはあったんじゃないかなと想像はします。
定子さまご自身でやったとはいえ、髪をおろしてしまった人を内裏に招いたりだとか、皇子が産まれたりだとか、「それはいかがなものか」という声もありましたし。でも、楊貴妃のように国が傾くまでやったとは思えません。
とはいえ、一条帝が定子さまへ執着していないように描いていたら、ここまで感情移入できていたかというと、分からないので…。そして何より、本作では道長を意地悪く描きたくなかったんだろうな…とも思います(苦笑)。
水野:でも、これが初めての藤原道長、一条天皇のイメージになっちゃっている人もいますよね。
たらればさん:「こんな帝はけしからん!」と思っている人もいると思います。
でも、どれだけ濃いオタクでも、立派な研究者でも、最初はみんな「ニワカ」だったわけですよね。入口はどんなかたちをしていても、興味を持ってもらって、そこから関連書を手にとってもらえたらそれでいいんだと、血の涙を流しながら、平安時代のオタクたちは思っているんじゃないかと……。
そう考えたら、「光る君へ」は時代考証も風俗考証もすごくしっかりしていて、「幹の太さ」みたいなものをひしひしと感じます。
だからわたしのような「好きな歴史上の人物の好きなところをもっとしっかり描いてくれたらなぁ…」というのは、贅沢な悩みだなとも思います。
水野:リスナーさんから「定子さまが傾国の美女のように描かれているのは納得がいきませんが、源氏物語の桐壺更衣のモデルとして描かれるのであれば、桐壺更衣自身が楊貴妃にたとえられているので、つながりは納得いきます」という声がありました。
たらればさん:やっぱりそうですよね~。そうなんだろうな、と思いながら……。しょっぱい涙を流しています……。
水野:ドラマの最新回では、今後、道長が枕草子に苦しめられることになる、という内容のナレーションもありましたね。
今後、権力が脅かされる道長のキャラクターがどのように描かれていくか、ききょうとまひろの関係がどうなっていくか、注目したいですね。
たらればさん:道長は、非常にまめで「誰にこれをもらった」、「お返しにあれをあげた」、「あの会合にはあいつとあいつが出た」といった日記(「御堂関白記」)を書いてるんですよね。そんな人事行政術や人心掌握に長けていたことを丁寧に描けばいいんじゃないかなと思います。
ただ、ききょうとまひろの関係がどうなっていくのか……。
ききょう演じるファーストサマーウイカさんがインタビューで「ただ、ひとつ言えるのは、道長が悪いんですよ」と答えていて、激しく共感しています(笑)。