連載
#38 イーハトーブの空を見上げて
予約は手紙だけ…「これで十分なんよ」電話もない宿のぜいたくな時間
「豊かさ」とは何か。
そんなことを考えさせてくれる小さな宿が、岩手県野田村にある。
盛岡から車で約2時間半。
北上山地の山道の奥に、かつて馬と暮らした伝統の「南部曲がり家」が見えてくる。
築約165年のかやぶき屋根の宿「苫(とま)屋」。
入り口ののれんをくぐると、中では囲炉裏に火がたかれ、青い煙が立ちこめていた。
宿には「ないもの」ばかりだ。
電話がないので、予約は手紙を出さなければならない。
テレビもないし、ゲーム機もない。
ネットもつながりにくいので、会話を遮る、スマートフォンの着信音も響かない。
「あるもの」は限られている。
山々を抜ける風と柱時計のチクタクという音。
宿の周囲を包む濃密な闇。
夕食には山菜と鹿の肉が並んだ。
囲炉裏の火を囲みながら交わす、宿泊客たちとの会話。
有り余るほどの、ぜいたくな時間……。
「これで十分なんよ」と宿を営む坂本充さん(63)は言う。
「僕らはずっとこれで十分だった」
充さんは若い頃、妻の久美子さん(65)と国内外を長く旅した。
英国で出会い、米国で暮らし、欧州や中東をめぐり、11年後、野田村にたどり着いた。
1日数組の客を取り、裏の畑で採れた野菜を食す。
「日々の暮らしに疲れたら、またいつでも『帰って』きなさいね」
久美子さんがやわらかく笑う。
帰り道、いつもよりゆっくりと歩いている自分に気づく。
(2023年5月取材)
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