連載
#22 ナカムラクニオの美術放浪記
迷路のような広場を描き続けたデ・キリコ 「形而上絵画」の独創性
ナカムラクニオの美術放浪記
方向感覚を失わせる迷路のような広場を描き続けた画家ジョルジョ・デ・キリコ。シュルレアリスムに大きな影響を与えた画家だ。
影がどこまでも伸びて、孤独な夢のようにも見える。そして、解けない謎を描き続けた。
彼は、いかにして、このモチーフを見つけたのだろうか。そして、なぜ広場でなくてはいけなかったのだろうか?
その原点ともなっているイタリアのサンタ・クローチェ広場を見に行った。
14世紀に完成したゴシック建築のサンタ・クローチェ聖堂がある広場だ。フィレンツェの中心部にあり、ドゥオーモからも歩いてすぐの場所にある。
ここで彼は、自分が何を描くべきか悟ったのだという。
広場の前にあるサンタ・クローチェ聖堂は、16世紀後半にジョルジョ・ヴァザーリによって改装され、ジョット、チマブーエ、ドナテッロが作品を残し、ミケランジェロやガリレイの墓もある歴史の塊だ。
そんな輝かしい記憶がぎっしり詰まった広場に座っていると、確かに何かを感じる。フィレンツェには、人を過去の時間に呼び戻すような力があると思う。
当時、デ・キリコは腸の病気から回復中でほとんど絵を描いていなかった。病み上がりだったことも関係あるのだろうか。この広場で覚醒してから、突然、記憶の中の広場を描くようになるのだ。
その日、「生ぬるい秋の太陽が容赦なく彫像と教会のファサードを照らし出していた」と回想している。そして、説明できないことは「謎」であり、「謎以外の何を愛せようか」と、奇妙な絵画を描くようになったのだ。
そして、「ある秋の午後の謎」を1912年のサロンに出品し、賞賛を受けた。その数か月後には、描き上げた30点の絵画の展覧会を開催するまでになった。
さらに展示を企画したフランスの詩人で批評家のギョーム・アポリネールによって「形而上絵画」と呼ばれ、デ・キリコの名声も高まった。
デ・キリコの作品には、この当時パリで流行していたマティスやピカソなどの要素がまったくなく、印象派でもない。この独創性は賞賛するに値するほど新しいものである、と絶賛されたのだ。
デ・キリコは、1888年イタリア人の両親のもと、ギリシアの古い都市ヴォロスで生まれ、家族とともにさまざまな街を転々とした。
父エヴァリスト・デ・キリコは、トルコのイスタンブール生まれだが、ギリシアを起源に持つ貴族だった。そして、鉄道の建設を担当する鉄道技師として多くの事業を成功させていた。
母ジェンマは、ギリシアとトルコの血が混ざったイタリア人で、トルコのイズミルで生まれた。
デ・キリコは、ギリシアで育った子どもの頃、立派な父を尊敬し、美術を好きなだけ学ばせてもらった。
父はデ・キリコ社を設立し、故郷ヴォロスとラリッサを結ぶ鉄道事業を成功させた。さらにテッサリア地方の水道網、建造物の再建を手がけた。
こうした街づくりを手がけた偉大なる父への尊敬が絵画にも反映されていると思う。
さらに、自分にギリシアの血が流れていることを誇りに感じ、ギリシア神話を愛した。彼が描く広場には、いつもその記憶が刷り込まれているような気がする。
しかし、父が早く亡くなったため、ミュンヘンへ引っ越した。
デ・キリコは、亡くなった時も父の顔を写生し、母はその後、大切にそのデッサンを肌身離さず持っていた。それほどまでに父の不在は、デ・キリコに空虚感を感じさせたのだろう。
当時のミュンヘンは、ヨーロッパの中でも美術が栄えていた都市。ここで、マックス・クリンガーやアーノルド・ベックリンの絵画に興味を持つ。
さらに、ショーペンハウアーやニーチェからも大きな影響を受けた。弟と共にニーチェの永遠回帰をテーマとしたコンサートも計画するほど哲学に傾倒していたそうだ。
「形而上学絵画」と名付けられた哲学的な絵画は、何かを見てそのイメージを脳内で超えていくための舞台装置なのだ。心が遠くから世界をどのように見ているかを示す現実の絵画なのだと思う。
デ・キリコは60歳の頃、ローマのスペイン広場の目の前に引っ越した。そして、1978年に90歳で亡くなるまでローマで精力的に活動した。
欧米のさまざまな都市に住んだ後、世界の中心ローマに戻ってきたのだ。彼は3階のテラスからローマの広場を眺めるのが好きだったそうだ。
世界の観光客でにぎわう広場を毎日うれしそうに見つめながら、あの記憶の中の広場を描いていたのだ。これこそデ・キリコ最大の謎だと思う。
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