連載
#21 ナカムラクニオの美術放浪記
奄美大島で燃え尽きた絵師・田中一村 アカショウビンに託した思いは
ナカムラクニオの美術放浪記
亜熱帯の動植物を描き続けた異端の画家、田中一村。晩年になって描いた奄美大島の絵画で知られている。
一体、どこでどんな暮らしをしていたのか。その足跡を追った。
まずは、一村が渡った時と同じルートで鹿児島から約11時間かけてフェリーで奄美を目指した。
早朝、港に着くと、タクシーの運転手さんが近くの温泉を勧めてくれた。そこが奄美山羊島ホテルだった。
島の玄関口となる名瀬湾に浮かぶ「山羊島(やぎじま)」にあるこのホテルへ向かうと本当に山羊が出迎えてくれた。名瀬湾に浮かぶこの島は、かつて橋が無く山羊だけが住む島として名付けられたらしい。
実は、ここは一村が奄美に来て最初に展示をした記念すべき場所だ。いつか銀座で個展を開きたいと考えたそうだが、生前には夢は叶わなかった。一村を巡るならまずは、山羊島へ行くのがおすすめだ。
詳しく調べるために田中一村記念美術館へ向かった。奄美空港の近くにあり、代表的な一村作品を所蔵している。
そして、いつ行っても傑作を見ることができる。もうここに来るのは3回目だ。しかし、何度来ても新しい発見がある。
美術館に入ると田中一村が描いたアカショウビンの剥製が受付に置かれており、ハッとした。
アカショウビンは、カワセミ科の野鳥だが、まるで赤く燃え盛る「火の鳥」のように見えた。
彼は自らを、燃え上がる炎に飛び込んで再生し、永遠の命を得た不死鳥「火の鳥(フェニックス)」に見立てて描いていたのかもしれない、と思った。
一村は、奄美大島に出逢えたことが重要だった。熱帯の自然は、モチーフを琳派風にカラフルに図案化できるところが魅力的だ。伝統的な日本画というよりは、どこか浮世絵の絵師が描くようなカラフルさ、ポップさがある。
精緻な描写と濃密な彩色は、南蘋(なんぴん)派や伊藤若冲の影響も感じられる。彼が元々描いていた南画(中国の南宗画に由来する絵画)のような素早いタッチの表現を意識的に封印しているように感じた。
どの作品からも、生きとし生けるものの放つ生命感が、強烈に伝わってくる。木の実などを手前に大きく配置する構図は、南の島の豊饒さを暗示しているようにも見えた。
幻想的な美を、自分の人生と重ねて探求したことが、強く人々の心をとらえてやまないのだ。
一村は、栃木に生まれ、7歳で天皇賞を受賞した。幼少のころから抜群に絵がうまく、父親から「米邨」(べいそん)の号を与えられ、南画を描きはじめた。まさに天才少年だった。
東京美術学校(現・東京藝術大学)へ入学したものの、数ヶ月で学校を辞めてしまった。そして画家としての活動をはじめた。
千葉の寺に20年近く住み活動したが、描いても描いても落選が続いた。新たな画境を開くため、九州、四国、紀州を旅行し、あることを思いつく。
最後の勝負に出るため、50歳を過ぎてから、一村は奄美大島へとひとりで移住したのだ。
なぜ、奄美大島だったのかはよくわからないが、ゴーギャンに影響を受けていたことは間違いないだろう。
奄美で暮らした19年、大島紬の染色工として働きながら、お金が貯まると亜熱帯の自然を描き続けた。
紬工場があった大熊の集落で一村について聞いてみたが、当時の様子を知っている人は見つからなかった。
1977年9月に心不全で倒れ、69歳でひっそり亡くなった。
一村が亡くなる直前に住んだ名瀬の家を訪ねた。木造平屋の家が現在の場所に移築、保存されているのだ。
元々は、近くの畑の中にあったそうだ。外観は当時のままに残されていた。材木を組み上げて作った高床式で、アジアの離島にあるバンガローのような家だ。
通常は、室内を見ることはできないが家主さんにお願いして、中に入れてもらった。あまりの素朴さに驚いた。床の隙間からは、地面が見えた。
さらに、当時の話を聞くことができた。長年住んだ借家からこの家に移った一村は、ここを御殿だといって、とても喜び、新たな創作意欲を燃やしていたらしい。
一村は、いつもタンクトップとパンツ一枚で農作業をしていたそうだ。そして、庭の小さな畑で大根やナスなどの野菜を育てていた。肉は食べなかった。
部屋には画材以外、何もなかったが、ピカソの画集を大切にしていたそうだ。ピカソから躍動的な線のヒントを得ていたのだろうか。
近くに住む方が一村の絵を持っているというので、お宅にお邪魔して話を伺った。巨大な絵が、テレビの横に飾ってあった。
一村は、ここ奄美で間違いなく亜熱帯の生命力を描いた。そして、独自の花鳥画風日本画を完成させたのだ。
写実的だけど幻想的。繊細さと力強さが共存する作風には、切なさも感じた。
ずっと評価してくれなかった画壇に対する復讐心のようなものは感じなかった。純粋さだけで描いた絵がそこにはあった。
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