連載
#19 ナカムラクニオの美術放浪記
描くべきモチーフに出会った…「見えない世界」を表現した曽宮一念
ナカムラクニオの美術放浪記
洋画家の曽宮一念(1893-1994)は、まるで仙人のようだ。
78歳で完全に失明した後も、不老不死の術を得たかのように101歳まで表現し続けた。むしろ自由にのびのびと山や空を描いた。
そんな曽宮一念が愛した富士山を見にいった。しかし、彼が描いた山のようには見えない。まだ、目だけで見ようとしてしまうのだ、と思った。
曽宮一念の本名は、下田喜七という。旧日本橋区で生まれた生粋の江戸っ子だ。
東京美術学校で藤島武二のアカデミックな教育を受けた後、卒業後は美術教師を続けながら自分の作風を模索するが特に大きく評価されることもなく、貧乏暮らしを続けていた。
彼の人生が大きく変わったのは、1937(昭和12)年、 43歳の頃からだ。
長野にある富士見高原療養所にカリエス(骨関節感染症)の疑いで入院し、病床の窓から毎日のように山と雲を鉛筆スケッチするようになり、彼の人生を変えた。
山の暮らしの中で、「描くべきモチーフ」を見つけたのだ。55歳になると、阿蘇や桜島などを訪ねて、「火の山巡礼」を始めた。
曽宮一念は、60代後半になると緑内障で右眼を失明。もう片方の目も次第に見えなくなっていった。
しかし、作品からは視力を失ってしまう恐怖が感じられない。
どういう風に見えるか、評価されるかなど、まったく関係がなくなって、原初的なエネルギーすら感じられる絵を描きはじめた。
むしろ、どんどん自由に心は解放されていく。大空を駆け巡る雲は、躍動感が溢れていた。
画面を奔放に走り回る線からは、純粋な描く喜びが感じられる。78歳になると両眼は完全に失明した。
それでも彼は生涯、心の中に浮かぶ「感性」で、書や短歌、絵画を通じて風景を描くことに挑戦し続けた。
画家が視力を失うなんて、絶望しかないと思うだろう。しかし、一念はむしろ「解放された」と考えたのだ。
印象派の画家、クロード・モネは、白内障で60代後半から視力が低下したが、自分の内面にある記憶を元に睡蓮を描き続けることで、自己の芸術を極めた。
踊り子を描いたエドガー・ドガも、60歳の頃から視力が衰えたことで、油絵ではなくパステル画や彫刻作品を作りはじめ、それによって傑作を数多く残した。
板画家の棟方志功も、子どもの頃から視力が極度に弱かったことで、心の奥底に眠る世界を板に刻みつけることができた。
曽宮一念は、見えないからこそ見える景色があるということを教えてくれる偉大な画家なのだ。
彼が描いた空や雲の間から差し込む光を見つめていると、深い瞑想の果てに到達した悟りの境地へ導かれるような気がする。
曽宮一念は、目に見えない世界を描いた画家だと思う。そして、101歳で亡くなる少し前まで精力的に活動を続けた。
画家は、長寿のイメージが強い。シュルレアリスムの画家ドロテア・タニングは、101歳、素朴派のグランマ・ モーゼス101歳。
独自の半具象絵画を描いたジョージア・オキーフは98歳、マルク・シャガールは97歳 、ピエール・クロソウスキーは96歳、オスカー・ココシュカは93歳、バルテュスは92歳、ピカソは91歳、ミロは90歳、ミケランジェロは88歳まで生きた。
日本でも、日本画家の奥村土牛は101歳、片岡球子は103歳、詩人で画家のまどみちおは104歳、日本画家の小倉遊亀は105歳まで活動した。
日本画家の横山大観は89歳、浮世絵師・葛飾北斎は88歳まで活躍した。
こうやって並べてみると、失明してもなお101歳まで描いた曽宮一念の仕事は偉業だ。
彼が描いた奇妙に渦巻いている雲は、現実社会を超えた、どこか遠い彼方への憧れを感じる。超自然的な空が、薔薇色の雲で覆われていることもある。
曽宮一念が残したすべての絵画は、彼がとりつかれた一種の"もののあわれ”の風景であることは間違いない。
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