連載
#17 ナカムラクニオの美術放浪記
南仏の青い海と白いビーチが与えたモチーフ ピカソの足跡を追って
ナカムラクニオの美術放浪記
地中海の光に溢れるフランス南部のアンティーブを訪ねた。19世紀にヨーロッパ上流階級のリゾート地となり、芸術家たちを魅了し続けてきた街だ。
パリにはない強い光と開放的な空気が流れている。
カンヌとニースの間に位置していており、ニースから電車で30分ほどのところにあった。
港には、ボンド映画の悪役が乗っていそうな豪華なヨットがずらりと並んでいた。
小説家のフィッツジェラルドは、アンティーブに滞在しながら、有名な小説をいくつも書いた。
毎晩のようにホテルで開かれる豪華なパーティーを見て、小説「グレート・ギャツビー」の着想を得たと言われている。
そして、ここはパブロ・ピカソ(1881-1973)ゆかりの地としても知られている。
1946年、大きなアトリエを探していたピカソに、市の博物館であったグリマルディ城の一室を提供し、寄贈された作品を中心に世界初のピカソ美術館が誕生したそうだ。
綺麗に改築されているせいか建物は直線的。なぜかキュビスムの絵画のように見えた。
南フランスで人生の大半を過ごしたピカソは、よく魚やイカ、ウニなどを描いている。
なぜこのようなモチーフをたくさん描いたのか?と思っていたが、アンティーブに来て謎が解けた。とにかく暮らしと海が近いのだ。
毎日、こんなに美しい青を見ていたのかと思うと驚きだ。
年間300日晴れると言われる南フランスの青い海と白いビーチ、そして温暖な気候は、スペイン生まれのピカソに大きな精神的安定と刺激を与えているのだと思った。
そして、もうひとりアンティーブを代表する画家がいる。ロシア貴族として生まれ、フランスで活躍したニコラ・ド・スタール(1914ー1955)だ。
分厚いマチエールで構成される静物画や風景画を多く描いた画家として人気がある。
ピカソ美術館の警備員さんに、彼のアトリエがあった場所を教えてもらうと、すぐ目の前であることがわかった。あまりに近くて驚いた。
海岸沿いに立つ四角いビルには、かつてニコラ・ド・スタールが住んでいたことを示すプレートが残されていた。
彼はここで傑作をたくさん描き、41歳の時、自殺した。アトリエがあったこの建物の最上階から飛び降りたらしいが、どうも奇妙だった。
ロシア貴族で大成功していた画家が、ピカソが暮らした城の横にある、こんな美しい場所で死ぬことなんてあるのだろうか?
すぐ目の前は、小さな入り江のようなビーチになっていて、海はどこまでも青い。子どもたちもたくさん遊んでいる。
もしかして他殺なのでは?とも思ったが、もはや誰にもわからない美術史最大の謎のひとつなのだろう。
ひとつだけわかるのは、ピカソもニコラ・ド・スタールも戦後の同じ時代に、同じ青を眺めていたということだ。
そういえば、ジャン=リュック・ゴダールの映画「気狂いピエロ」の中に印象的なシーンがあった。
「ピエロ」と呼ばれるジャン=ポール・ベルモンド扮する主人公フェルディナンが、顔に青いペンキを塗り、ダイナマイトをぐるぐる巻きにして、自ら火を点ける。
すぐに我に返って火を消そうとするが間に合わずに爆発するのだ。そこで「俺は地中海に浮かぶ大きな疑問符なんだ」と言う。
もしかしたらゴダール監督は、ニコラ・ド・スタールの不可解な死から、この映画のラストシーンを思いついたのではないかと思った。撮影もアンティーブのアトリエで行われたそうだ。
いずれにしても南フランスの青い海の前で、ピカソは生を満喫し、ニコラ・ド・スタールは死を選んだ。なんと切ない出来事だろうか。
ピカソのことをもう少し調べようと思い、パリに戻って、ルーブル美術館の近くにある画材店「セヌリエ」を訪ねた。
創業は1887年。印象派の時代から多くのアーティストを支えてきた老舗だ。
小さな店の中にはぎっしりと画材が並んでいる。店は、思ったより狭かったが、日本画の顔彩まで、ずらりと揃っているのに驚いた。とにかく品揃えが、画家目線でマニアックだった。
この店には、ピカソと共同開発したオイルパステルが並んでいた。どんな紙にも描きやすい画材を探していたピカソのために作られたそうだ。
厚くも薄くも描けるし、滲ませたり、ぼかしたり、輪郭をはっきりさせる表現もできる。
オイルパステルは「色褪せ」や「ひび割れ」がしない画期的な油性の画材だったらしい。
よく考えてみるとピカソは、こういったオイルパステルを使って素早く線を描いた作品がかなり多い。
自分のために画材まで開発していたとは、さすがピカソだ……と感心して、セヌリエのパステルを買った。
パッケージには、青と黄色でピカソ風の顔が描かれていた。
遠くでピカソの笑い声が聞こえたような気がした。
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