連載
ダムに水没した〝漆器の里〟最後の伝承者 名品「増沢塗」は残せるか
岩手県奥州市の山奥に戦後、ダムに水没した「漆器の里」があった。
増沢集落という。かつては約60世帯が暮らし、木を切り出す人や漆の下塗り、本塗り、製品を運搬する人など、漆器の分業体制が敷かれていた。
集落がダム底に沈むと名品「増沢塗」の担い手たちは離散し、ふもとで暮らす塗師・及川守男さんだけになってしまった。
奥州市の工房を訪ねると、ピンと張り詰めた空気のなかで、及川さんが金箔(きんぱく)の施されたトキ色の漆器に紅の線をひいていた。
「毎日使ってもらえるものを作りたい。そのためには、まずは丈夫なこと。そして、何百年たっても修理ができることです」
及川さんの父は幼児期に鍋のかかった囲炉裏に落ち、全身にやけどを負って左手が不自由だった。
16歳で塗師に弟子入りし、漆器制作に取り組んだ。及川さんは父の後継者として、幼いころから仕事を手伝っていた。
ところが戦後、巨大台風で下流の北上川流域で水害が発生すると、増沢集落を治水ダムに変える計画が持ち上がる。
1950年の工事開始と共に住民は移住を余儀なくされ、集落の大半がダム底へと沈んだ。
「漆器で成功した増沢には電気も電話もラジオもあり、比較的豊かだったのです。でも移住した農村ではまだそれらが珍しく、厳しい生活を余儀なくされました」
当初、増沢集落では集団移転が検討されたが、まとまった土地が見つからず、分散移転になった。
結果、漆器制作の各工程で、木地師や塗師などの職人が互いに連絡を取り合えなくなり、それぞれが廃業へ追い込まれた。
増沢塗の特徴はシンプルな絵柄と、問屋を通さずに制作者と購入者が直接取引する販売方法だ。
購入者が安く買えるだけでなく、信頼関係の上でやりとりするため、制作者が商品の質を落とせなくする仕組みでもある。
及川さんは今もその伝統を守り続けている。
1989年に父が死去した後も店は出さず、父の代から受け継いだ顧客からの受注生産で器を作り続けている。
「商品を手渡したとき、購入者がその漆器をどれくらい欲していたかが表情でわかる。お金ではなく、その反応こそが、作り手にとっての財産なのです」
父が漆器制作を始めて100年になる。
歴史ある増沢塗を後世に残したい――。
そう願うが、後継者がいない。
(2022年6月取材)
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