連載
#11 ナカムラクニオの美術放浪記
モネの世界はマンガから生まれた? 描きたかった「時間と心の動き」
ナカムラクニオの美術放浪記
なぜモネは「睡蓮」にこだわったのか?
画家クロード・モネは、86歳で亡くなるまで43年間、パリ郊外の終の棲家、ジヴェルニーで庭づくりと創作を続けた。
そして、小鳥が歌うように、たくさん「睡蓮」の連作を描いた。
そんなモネの足跡を訪ねて、静かな農村を訪ねた。
ジヴェルニーはパリから西へ約74km。日帰り旅行も可能だ。
パリからヴェルノンという駅まで1時間半ほど電車に乗り、その後はバスに乗り換え20分ほどのところにある。
世界中から多くの観光客が訪れるので、11月から3月は庭園に行く専用のシャトルバスが運行している。
ジヴェルニーは、人口500人あまりの小さな街。絵本のような世界が広がっている。バス停の近くに、モネのお墓もあった。
まず驚いたのは、その人気ぶりだ。自宅の鑑賞は予約制なのだが、入り口の前には世界中から訪れたモネのファンが、100人以上並んでいた。
しかも、立派なカメラを持った人が多い。ここは世界一人気のあるフォトスポットでもあるのだ。
モネが住んでいた家と庭園にはたくさんの見どころがある。
家の前には、レストランも数軒あり、モネが考えた魚料理「カワカマスの白バターソース」など限定メニューも楽しめるようになっていた。
食にこだわりが強かったモネは、大好物のカワカマスを食べるために池でも飼っていた。
庭ではハーブや野菜を育て、鶏を飼い、産みたての卵を使った料理なども楽しんでいたようだ。
庭園には、季節ごとに表情を変える色とりどりの花が咲いていて、立派な植物園のようになっている。
バラ、ダリア、コスモスなどが信じられないような規模で咲いていた。まさにモネの絵画の世界に没入するような感じだった。
さらにモネは、セーヌ川の支流の水を引いて池をつくり、日本風の太鼓橋をかけ、理想郷を作り上げた。
池に行く途中、日本風の竹を組んだ柵や、竹林が見えた。モミジやツツジなども植えられている。
日本庭園をかなり意識していたことがよくわかる。太鼓橋のまわりは淡い紫色の藤で覆われていた。
睡蓮も、元々はヨーロッパにない花。全世界から珍しい品種を取り寄せていたそうだ。そして、ひたすら時間をずらしながら光の中で睡蓮の連作を描いた。
蓮は、アジアでは極楽浄土に咲く神聖な花として知られている。
自宅の庭で特に愛情をかけて育てたのは、やはり仏教的な「極楽」をイメージしていたのだと思う。
池の泥水を吸いながらも美しい花をつける姿に自分を写していたのだろう。
モネは、パリで生まれたが、父が輸入食料品の店を営んでおり、4歳でセーヌ川沿いの港町ル・アーヴルに引っ越した。
幼い頃から絵を描くことが好きだったモネ少年は、学校の授業中もずっとノートに似顔絵を描いているほどマンガが得意だった。
この当時のマンガは、「カリカチュア(戯画)」と呼ばれ、新聞に風刺画として皮肉や批判を込めて描かれることも多かった。
15歳の頃から描いた風刺画を画材屋の店先で売り、生活費を稼いだ。
すると、偶然モネの作品を見かけた画家ブーダンに褒められ、画家となる手ほどきを受けるようになった。
マンガを売ったお金、200フランほど(現在の約20万円)が貯まったおかげで、パリに旅立つことができたのだ。
つまり、この世にマンガという表現手段がなかったら、モネは父の後を継ぎ、食料品店のオーナーになっていたに違いない。
睡蓮、積みわら、大聖堂などのモチーフを、異なる時間と光のもとで描く「連作」は、マンガのコマ割のような発想にも見える。
少しずつ違う絵を並べることで「時間」の動きを演出することができるのだ。
葛飾北斎の「富嶽三十六景」のように「富士山」という同じモチーフを連作する浮世絵がヒントになっているような気もする。
ジヴェルニーに来て、感じたのは「モネが描きたかったのは、時間と心の動き」だった、ということだ。
よく考えると、これらはすべて少年時代のマンガからはじまっているのかもしれない。
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