連載
#27 名前のない鍋、きょうの鍋
結婚5年で夫が急逝… 「私には絵がある」が結んだ〝出合い〟の鍋
みなさんはどんなとき、鍋を食べたくなりますか。
いま日本で生きる人たちは、どんな鍋を、どんな生活の中で食べているのでしょう。そして人生を歩む上で、どう「料理」とつき合ってきたのでしょうか。
「名前のない鍋、きょうの鍋」をつくるキッチンにお邪魔させてもらい、「鍋とわたし」を軸に、さまざまな暮らしをレポートしていきます。
今回は、アートを通じて子どもたちに「出合い」の機会をつくっている宮城の女性のもとを訪ねました。
関口怜子(せきぐち・れいこ)さん:美術家。1946年、宮城県登米郡中田町石森(現・登米市)生まれ。旧姓、清水。宮城学院女子短大家政科卒業。子どものための創造空間『ビーアイ』を1987年に立ち上げ、ワークショップ活動を続ける。仙台市在住、ひとり暮らし。二女あり、孫は4人。
「かぼちゃはね、秋になると毎年送ってくれる方があるの。それを子どもたちが描いて、終わったらみんなで食べる。硬くて切るのも大変というのを見せてからレンジにかけて、煮ると柔らかくなるでしょう、って」
かぼちゃにも様々な「顔」がある。じかに触って、いろいろな角度から見て、断面も見て、好きなところを見つけて描いて、その後に食べる。
旬の食材をモデルにした、ある日のクラスの内容だ。
関口怜子さんは仙台の地で45年以上、子どもたちを対象としたワークショップを続けてきた。
「たっぷりのかぼちゃをソーセージやベーコンと一緒に牛乳とコンソメで煮て、ショートパスタも入れる鍋をよくやるんです。刻んだ玉ねぎとバターも入れたら、あとはとろとろになるまで煮るだけ!」
ああ、おいしそうだ。絵画教室のお子さんたちの喜ぶ顔が見えるよう。
「絵だけじゃなくて、いろんなことやるの。粘土や工作もやれば、布を好きに染めてみたり、料理もしたり。もったいないでしょう、せっかく生まれてきたんだから。子どものうちに身近にある多くのものとの出合いがあれば、“無意識”の中にいろんなことが入っていくから」
子どもが様々な体験を出来る『ハート&アート空間 ビーアイ』を仙台市青葉区に立ち上げたのは、1987年12月のことだった。
関口さん自身、やはり少女時代から絵を描くことが大好き。お生まれは宮城県の登米郡中田町石森(現在は登米市)というから、漫画家の石ノ森章太郎さんと同郷だ。
「うちの6軒隣が石ノ森さんのお宅でした。中田町石森ってね、とても文化的なところだったの。明治から昭和にかけて栄えて、公会堂もあってね。今、朝の連続ドラマのモデルになってる歌手の笠置シヅ子さんをそこで見たの、私覚えてる!」
まるで昨日見てきたかのように、関口さんは目を見開いて言った。ワクワクした気持ちがよく響く声から伝わってくる。
「私、ボイストレーニングを受けていたこともあるんです。子どもたちに話して伝える上で、声の出し方や響きって大事だと思って。伝えようにも声が届かなきゃしょうがないから。でしょッ?」
「しょッ?」という声がキッチンにまた朗らかに響く。関口さんの声にはとびきり明るい色が付いているように感じられた。
お日さまみたいなひとだな、という印象が強くなる。『ビーアイ』に通う子どもたちも、この明朗さに惹かれるのではないだろうか。
「だけど私、小学校に入るまでは無口で人見知りだったんですよ。小1の担任の先生がよかった。いろんな用事を私に頼むわけ、やると褒めてくれて、人に喜ばれる楽しさを私は覚えたんですね。それでだんだんお節介な性格が目覚めていって(笑)」
高校時代は美術部に入り、またも良い師にめぐり会えた。
「顧問が熱心なひとで、いろんな画家や美術関係者を連れてきては講義をお願いして。茶色だけで静物画を描いてみましょう、なんて特別授業は忘れられませんね。本当にたくさんの刺激を受けました」
1964年、宮城学院女子短大に進学する。同時期には宮城出身の洋画家、狭間二郎(俳優・菅原文太の父)の研究所にも入り研鑽を積んだ。
短大での部活動も美術部へ。腕前と人柄が評価され、なんと1年生で部長に選ばれてしまう。
「やっぱり絵って、描いたら見られると嬉しいじゃない。だから毎月展覧会をやろうと決めて、部員に教えつつ教務課にかけあって『構内に絵を展示させてください』って交渉もして。学んでいたのは家政科だったから栄養士の資格も取りました。短大時代に体験したことはすべて今に活きてますね」
短大卒業後は七十七銀行に入行、同僚だった関口敬さんと1969年に結婚する。彼のひと目惚れだったようだ。
二子に恵まれたが、結婚生活は5年と半年で終わってしまう。敬さんが自動車事故に遭われたのだった。
「盛岡に赴任してすぐに事故に遭って。当時子どもは上が4歳で、下が生後3か月半。夫を亡くしてから、私はあまりにも上の空だったんでしょうね。周囲の方が『あんた、このままこうしていたら自分が自分で無くなりやんすよ』って言ってくださったの、忘れられません。自分には何が出来るだろうと思ったとき、ああ、『私には絵がある!』と思えました」
死に目にはお会いになれたのですかと尋ねたら「いいえ。でもね、死に目に会えたからどうこうでもないと思う。一緒にどう居たのか、が大事でしょう」ときっぱり言われたのが忘れられない。
突然の別れから1年も経たないうちにアトリエを立ち上げ、近所の子どもたちを教え始めた。「あの人の分まで生きよう」という思いと共に。
鍋が煮えた。
かぼちゃがとろけて牛乳と交じり合い、鍋中はすっかり山吹色。バターの香りって気持ちを穏やかにさせるなあ……といつも思う。
「さあ、食べましょうよ」と関口さんがパンを温めて持ってきてくれた。続いて冷蔵庫からピクルスやらがどんどん出てくる。
箸はご自身で削って塗られたものだそう。いわしの形をした銀色の箸置きが可愛らしい。なんともカラフルで、目に楽しい食卓がアッという間に出来上がった。
かぼちゃの鍋をひと口食べた関口さん、「うまか~」と発して満面の笑顔に。つられていただけば、かぼちゃの甘みとソーセージなどの塩気がいいバランスだ。
ベーコンやバターの味わいがなんともリッチだけど、もたれるような感じはまるでない。
ショートパスタもいいけど、フィットチーネでも入れたら洋風ほうとう、みたいになって面白そう。
実は関口さん、今年の2月に惜しまれつつ『ビーアイ』をクローズされた。
「ビルの運営をされていた方が亡くなられて、ビル自体が売却されることになったの。私は他の仕事がとても忙しい時期で、代わりの場所を探す余裕がなくて。一旦これでピリオドにしようという気持ちになりました」
立ち上げから36年の月日が流れていた。通った子どもは1946人、お別れを発表してからは毎日のように卒業生たちが「もう一度教室を見ておきたい」と訪ねてきた。
だが関口さんは引退されたわけではない。仙台駅前のカルチャースクールでは子ども向けの教室を受け持ち、現在も続けている。依頼を受けて各地でワークショップを開催することもしばしば。
「大変だったとき『私には絵がある』と思えたから生きてこられた。子どもたちも、いつか何かあったとき『私にはこれがある』と思ってほしい。そのためには無意識のうちにたくさんのモノやコトに出合えたらいいなと思うのね。だからこれからもたくさんの子どもたちと出会いたい」
関口さんの話には「いろんな」という言葉が何度も出てきた。
いろんな用事をこなすことで人と関わる楽しさを知った小学生時代。いろんな美術のありようを知った高校時代。そして故郷で小さい頃、春と秋に行われていた市が忘れられないという話も教えてくれた。
「いろんな地域から人が来て、海の幸や山の幸、民芸品なんかを売る出店が並ぶの。サーカスや見世物も来るし露店も並んで、それはもうわくわくしましたね。開催が楽しみでしょうがなくて」
世の中には「いろんな」ものがあるから楽しく、素晴らしい。バリエーション豊かな、世界の多様性と面白さを子どもたちに伝えてきた関口さん。
彼女のキッチンや冷蔵庫の中には、やっぱりまたいろんなものが並んでいて、見ているだけで楽しかったな……と帰り道、しみじみと思った。
取材・撮影/白央篤司(はくおう・あつし):フードライター。「暮らしと食」をテーマに、忙しい現代人のための手軽な食生活のととのえ方、より気楽な調理アプローチに関する記事を制作する。主な著書に『自炊力』(光文社新書)『台所をひらく』(大和書房)など。10月25日に『名前のない鍋』を出版予定。
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