連載
岡倉天心は日本文化を発信する「元祖インフルエンサー」だった
ナカムラクニオの美術放浪記
ボストンは、タイムカプセルのような街だった。
神戸や長崎のような懐かしい空気が流れている港町にも見えるが、質の高いアジアの作品が10万点以上大切に保管されている要塞のような場所なのだ。
アメリカで最も古い歴史を持つボストンは、貿易港として栄え、世界中の美術品が集まった。そして、ボストンといえばボストン美術館だ。
早くから中国、日本、インドなどアジア地域の美術の収集に力を入れて、「東洋美術の殿堂」と呼ばれるようになった。
ボストン美術館の日本美術といえば、岡倉天心だ。
天心といえば、日本美術院を創立し、近代日本美術を支えた男として知られている。ボストン美術館に勤め、日本美術を収集した専門家でもある。
英語が堪能で、アメリカにいるときも和服で通した。
岡倉天心の本名は、岡倉覚三。父は、福井藩の下級藩士だ。横浜の商店の角の蔵で生まれたので「角蔵(覚三)」と名付けられた。
彼は、そして一派な「角のある」青年に育った。1862年に生まれて、1913年に52歳で亡くなるまで世界を駆け巡り、日本の美を広めた。
岡倉天心の代表作と言えば『The Book of Tea(茶の本)』だ。
日本の茶道を欧米に紹介し、西洋に語りかける東洋の美をまとめた哲学書のような一冊だ。
これはボストン美術館での講演をまとめた天心がニューヨークで出版し、ベストセラーになった。
岡倉天心は、ボストンで上流階級の人々に『茶の本』を紹介することで、茶を高級品として売り込むことに成功した。
日本の文化大使として、茶道は世界各地に知られることとなり、輸出用の緑茶が世界に普及した。茶は、高級品へと進化したのだ。
こういった岡倉天心の功績はあまり語られないが、美術品だけでなく、日本文化を世界に広めたインフルエンサー的活動が、彼の最も重要な仕事だと思う。
美術館内のバックヤードには、岡倉天心が作ったという擬宝珠(ぎぼし)のついた階段が今でも残っていた。さらに新しく「天心庵」という石庭も作られて、彼の業績が讃えられていた。
ここからは、岡倉天心との対談を妄想してみたので、ぜひ聞いてほしい。
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