連載
奥能登で幻の漆器「合鹿椀」を探して ぬくもりある、まるで彫刻作品
ナカムラクニオの美術放浪記
輪島から美しい棚田「千枚田」を抜けて、山道を走ること30分。石川県、能登半島北部の旧「柳田村」に到着した。
輪島に隣接する場所だが、ひっそりとしており、車で走っていても、誰もいないし、何もないように見える。
しかし、ここは幻の漆器と呼ばれる「合鹿椀(ごうろくわん)」が生まれた場所。どうしても見てみたかったのだ。
自宅でも復刻した合鹿椀を長年にわたりいくつも使っているが、現代の漆器よりかなりサイズが大きいし、高台も高い。さらに丈夫で万能。とにかく使い勝手のいいお椀だ。
しばらく走ると、合鹿椀にゆかりがあるという「福正寺」が見えてきた。
中には、貴重な資料が保存されており、住職さんが漆器の歴史について丁寧に教えてくれた。
意外なことに1階の広間はドイツ人の建築デザイナー、カール・ベンクスさんによりリノベーションされており、巨大な一枚板のテーブルが置かれていた。
合鹿椀は、かつて柳田村で作られていた。この村は2005年に合併し、能登町となり名前が消滅してしまったので、今では村の歴史を知る人も少なくなってしまった。
この柳田村には「合鹿(ごうろく)」という地区があり、かなり古くから木地挽きや塗り、漆掻きが行われていた記録があるそうだ。輪島の漆芸のルーツともいわれている。
「合鹿」は、漢字で「鹿に合う」と書くが「鹿(ろく)」は、木地師の仕事で使う「ろくろ」を彷彿させる。
木地師(きじし)とは、ろくろで椀、盆などのベースとなる木地を作る職人のこと。いつ頃から作られていたのかは不明だが、おそらく室町時代くらいから始まり、明治時代に途絶えたとされている。
農民の生活に根ざした日常雑器として作られていたが、生活の変化によって、一度は絶滅してしまったのだ。
しかし、昭和30年(1955年)頃、輪島の漆芸家である角偉三郎(かどいさぶろう)さんが中心となり復活した。現在でも、その伝統が受け継がれるようになった。
テーブルもなく、囲炉裏を囲む食文化であったことから、高台を高くしたのだと思う。ハレの日にも兼用できる造形だ。
さらに、毎日使うため、かなり厚手に作られ頑丈になっている。もちろん、何度も塗り直しをしながら、使い続けたことだろう。
続いて、柳田教養文化館を訪ねた。
ここは図書館にもなっているのだが、なぜか地元の資料として、旧柳田村で埋れていた文化財であるオリジナルの合鹿椀が並んでいた。
しかも、図書館の受付でお願いすると、ガラス戸を開けてくれて、自由に触ることができた。
表面にはろくろ跡や木目がくっきり浮かび、素朴で迫力のある造形となっていた。
持ち上げてみると意外と軽く、使いやすく工夫されていると思った。
この素朴な感じは、生涯に約12万体の仏像を彫ったと言われる江戸時代の仏師、円空の作品にも似たぬくもりを感じた。漆器というよりは、ある種の彫刻作品なのだ。
海や山と暮らす日々に追われる村人たちが、囲炉裏を囲んで豪快に食べ、飲み、洗い、干していた様子が目に浮かぶ。合鹿椀は木の霊性を素手で掴む漆芸の原点と言える「大きなうつわ」なのだ。
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