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出生前診断を受けた私が、本当に恐れていた「母の愛」への過剰な期待
作家・小野美由紀さん「わっしょい!妊婦」
コロナ禍のさなかの2年前、妊娠中の作家・小野美由紀さんは、お腹の赤ちゃんの生まれつきの病気の一部を調べる「出生前診断」を受けるかどうか悩んでいました。「どんな命も尊い」とわかっていても、子どもに異常があったときに育てられるかどうかという不安でいっぱいだったと振り返ります。
東京オリンピック真っただ中の2021年8月初旬、私たち夫婦は悩みに悩んでいた。
妊娠10週に入ったお腹の子の出生前診断を受けるか否かについて、である。
出生前診断というのは、ざっくりいうとお腹の子に生まれつきの異常がないかどうかを調べる検査のことである。21トリソミー(ダウン症候群)、18トリソミーをはじめとした染色体異常や、見た目の異常、脳や心臓の異常など、さまざまなことがわかる。
ちょうどその頃、DaiGoという人がYouTubeでホームレスの命を軽んじるような発言をし、SNSで大炎上していた。
多くの人が彼の発言を「優生思想だ」となじり、激しく批判していたが、私には彼に向けられた言葉の一部が、ツイッターのトレンドに連日並ぶ「優生思想」という単語が、まるで自分に向かって投げつけられているように感じられた。
出生前診断を受けることは、結果を知ってどうこうすることは、優生思想だろうか。
現在日本で受けられる出生前診断には色々な種類のものがあるが、差し当たって我々が決めなければいけないのは、11週から13週5日までと、非常に短い期間しか受けられない「コンバインド検査」をどうするかであった。
「コンバインド検査」とは、超音波検査によって胎児の首の後ろのむくみの厚さを見たり、体のさまざまな部位の長さを測る検査と、妊婦の血液検査を組み合わせて障害のある確率を算出する検査である。
検査を受けるということはつまり、まだ生まれる前からお腹の子に障害があるかどうかの確率を知ってしまうということである。またもしその確率が高かった場合、そのまま妊娠を継続するかどうかを決めなければいけないということだ。
私は本当に、それを知りたいのだろうか。
知って、もしお腹の子に障害があると言われたら、どうするのだろう。
「うちは受けんかったよ」と、六歳の双子の母である友人のしぃちゃんは言った。「もしこの子らに障害があっても、産むって決めてたから、受けても意味ないやんと思って受けんかった」
「うちも受けなかった」 と、四歳の子どもを持つヨシノちゃんは言った。
「うちは、もし子どもが障害児だったら夫婦それぞれのキャリアが大きく変わるのは目に見えてたから、最初から障害児が生まれた想定で互いのキャリアプランを書き直して、そうなるって覚悟を持って出産に挑んだ」
二人の覚悟の強さに眩暈がした。と同時に、私自身の覚悟を問われているようで私はうっとなった。
妊娠というのは、その発端から産み落とすまで、すべてがその妊婦に固有の経験であって、一つとして同じものはない。だからこそ、産み落とすまでのどんな判断もすべて、最後には産む女一人にかかっており、他人の体験や考えが参考にならない・参考にしても意味がないことも多い。
にもかかわらず、この時ばかりは妊娠初期特有の、スマホの地図アプリで自分の位置が全然表示されない時のような不安と心細さから、ついつい他者の考えを気にしてしまう。
どんな命も、尊い。
心の底からそう思う。
けどそれと、自分が当事者として育てられるかというのはまったく別の話だ。YouTubeで障害のあるお子さんを育てるお母さんのドキュメンタリーなどを見ると、いったい自分に彼女たちと同じことができるだろうか、彼女たちの想像を絶するような苦労の何分の一かでも、自分に背負えるだろうか、と心が重くなる。
どんな形であれ一つの生をまるごと受け入れて、生かしきることの大変さとか、難しさとか、現実的に直面する費用の問題とか、夫婦のどちらかが仕事を辞めなければいけない社会の現状とか、またもしその覚悟を我々が持てたとして、産んでから実際にそのスキルがあるのかどうかとか、ないとわかった場合にどうすればいいのかとか、その場合の受け皿はあるのかとか。
現実的な個々の事象についてひとたび考えはじめると、なんだか自分自身がとても頼りなく、そうまでして私は子どもを持ちたいのか、持ってしまったその子はしあわせなのだろうか、その覚悟のない私が子どもを持っていいのかどうか……と無数の分岐が頭の中に生まれては分裂し、炸裂し、悪い想像の博覧会になってしまうのだった。
「しかもさ、出生前診断でわかるのって確率でしかないじゃん、たとえば子どもに異常が出る割合が50パーセントですって言われても、2回に1回はそうでない子が生まれるんだよ。知ってどうするの?」
そう、なん、ですよ。
確率というのは、あくまで確率でしかない。当たり前のことだ。けれどもその数字を知った途端、知る前、つまり気持ち的には五分五分だった時にはまるで単純だった選択が、ものすごく難解なものになる。
そんな気分になるためにわざわざ検査を受け、受けた結果「確率は確率でしかない」という、平らな板でぱーんと押さえつけるような結論で自分をなだめるのであれば、マジで受ける意味なくない? というのはもっともなのだった。
数字を知るということは、未来の可能性に、そしてお腹の中の子どもに、首輪をつけるようなものではないのか。
生まれてくる命、それがどんなものでもまるっと受け止められないのであれば、親として、いや人間として失格だろうか。
俺は受けたほうがいいと思う、と夫は言った。
「もしなんらかの異常がわかって、生まれたあとの準備が必要な子どもだった場合、対策が取れるじゃない。子どものためにも絶対受けたほうがいいよ」
それはつまり、どんな子であるとわかっても、産んで欲しい、ということだろうか。
産む、産まないは私が決めることであって、夫は当然、私の選択を尊重してくれるだろう。ということは、なおいっそう、検査を受けるも、受けないも、異常を知った場合どうするのかも、私がよくよく考えて決めないといけない、と感じた。
ちょうどその時、ドイツに住んでいる知人から「出生前診断」を受けたという連絡があった。
「ドイツでは出生前診断を受けることは妊婦の権利の一つと考えられているので、リスクが高いと判断された場合、公費で検査が受けられます」と、私とほぼ同じ週数の妊婦であるちかさんは言った。
「そもそもドイツでは、妊娠すると専属の助産師が付いて、気軽にいろんなことを相談したり、カウンセリングを受けられるんです。もし障害があると診断されても、生まれるまで公的にサポートしてもらえるし、出産後も障害者福祉にスムーズに繫げてもらえます」
正直、彼女が羨ましくて仕方なかった。
自分の生まれ育った国で、安心して出産したいのに、この、貧乏くじを引かされているような感覚はいったいなんなのだろうか。
そんな思考をぐろぐろと積み重ね(ているようで、同じ地点を旋回しているだけかもしれなかった)ているうちに、日々は過ぎ、妊娠11週に入った。
ちょうどその頃、知人の文化人類学者のT先生に会う機会があった。私はT先生に、出生前診断を受けるかどうか迷っていると打ち明けた。
「キリスト教の考えでは、ヒトは受精の瞬間にヒトになるといいます。アマゾン奥地に暮らすヤノマミ族は、出産後、母親の腕に抱きかかえられた子だけが人間になるといいます。日本では母体保護法に基づき、医師が人間と非人間を線引きします。それぞれの集団の決めた暗黙の優生学の中で、僕らは人間と非人間を判定していて、それを意識していないだけだと思う」
そう言ってT先生は「ヤノマミ族」のドキュメンタリーを貸してくれた。ヤノマミ族はアマゾンの奥地の原住民族で、彼らの風習では、女は臨月になると森に行って出産する。産んだ子を育てるかどうかは産んだ女一人の判断に委ねられる。育てないと決意したら、子はその場で自分の手で殺し、バナナの葉で包んでシロアリの巣に入れて蒸し焼きにする、ということだった。
胸の奥をぎゅっと摑まれたような不快感と興奮があった。
ヤノマミ族の女と、遠い日本に住み出生前診断を受けようとしている私には何の共通点もなく、ものすごく遠い存在である。にもかかわらず、まるで並んで同じ景色を見ているような気持ちになった。
私は彼らのドキュメンタリーを繰り返し見た。
怖かった。このぞわぞわの正体は、怖さと、半分は羨ましさだった。産み落とされる命の価値がすべて産む女に委ねられているという潔さと、半ばあきらめにも似た自然の摂理への服従には、ここまで社会が複雑に組み上がり、逆に何かが後退してしまった私たちを笑っているかのような軽やかさがあった。
連日、子を殺した女のニュースがネットを騒がせ、女だけに罵詈雑言が浴びせられる我々の社会のことを振り返ると、足元がぐらぐら揺れるような感覚に陥った。
一方で、我々の社会でも彼らの社会でも常に、産み落とされた命の価値を決め、責任を負うのは、常に女なのだ、女だけが引き受けるのだ、という、重さと絶望もまた感じられた。
結局のところ、どんな社会的なお膳立てがあろうと、どんな価値感の中であろうと、産む、産まないは女本人が決めることなのだ。
腹を、括ろう。
熟慮の末、私は夫に「もし、子どもに重い障害があるとわかった場合、堕胎することも視野に入れる可能性があるが、それでいいか」と聞いた。
「知りたい」とか「対策を取りたい」とか、どんな言葉で誤魔化そうとも、検査を受けるということはつまり、自分にとってそういうことだった。そこを言葉にせずに誤魔化すと、あとから後悔する気がした。
夫はわかった、と言い、コロナ禍のためもあり出生前診断には私一人で向かうことになった。
色々と調べた結果、ほかのクリニックよりも細かな部分まで見られる検査を行っているという大阪の検査施設で受けることに決めた。
ギリギリで受診を決めたため、予約ができるの12週の頭の2日間のみとのことだった。なんとかスケジュールを調整して、診察をねじ込んだ。朝早くの診察ということもあり、新幹線に乗り、前日に京都に1泊して向かうことにした。
当日、大阪の迷宮のような地下通路で迷いながらも、なんとか地下鉄に乗り換え、私はクリニックの最寄りの駅まで辿り着いた。
待合室には異常な緊張感が漂っていた。出産専門のクリニックや助産院にあるような、赤ちゃんができてハッピー!というまったりした雰囲気はまったくなく、椅子に座って待つ女性は皆、まるで死刑宣告を受けるかのような面持ちだった。
皆、お腹もほとんど目立たず、後期の妊婦特有の生臭さもなく、私と同じで、まだ妊婦と妊婦以前の境目にいるような、そんな女たちだった。かかりつけの産婦人科で異常の可能性を知らされて、検査を受けにきている人もたくさんいるのだろう、と思い至った。
待合室でしばらく待つと、番号を呼ばれた。
「はい、じゃ、ママ、診察室Dに入ってください」
……マ、ママぁーーーー??!!
フレディ・マーキュリーのように、私は心の中で絶叫した。
え? 私の名前、書かなかったっけ?
人生で初めてママ、と呼ばれた衝撃(しかも、実の子より早く)で固まっている私をよそに、スタッフはにこやかに言った。
「ママ、こちらですよ」
手元のカルテには私の名前がばっちり書いてある。ここでは患者は全員一緒くたに「ママ」と呼ぶシステムなのだった。
「はい、ママね、採血しますよ」
「はい、ママね、血圧測ってください」
脳内でフレディ・マーキュリー化している私をよそに、診察の準備はきわめて機械的に進んでいった。
私はお前のママちゃうぞ、と口から出かかったが、あまりに準備がシステマティックに進むので、黙ったまま従った。
通された診察室は6畳ほどの広さで、診察用のベッドとモニター、着替えるためのスペースがあった。
「はい、ママ、じゃ、着ているものを全部脱いでこれに着替えて」
診察着は浴衣のような作りで、下半身がマジックテープで開閉できる仕様になっていた。着替えると、何も着けていない下半身に風が吹き抜けてスースーし、私はそわそわした。
「じゃ、ベッドに横になって待っててくださいね」と言われ、私は横になった。診察台には内診用の、いわゆるM字開脚をするための足の置き場がついていて、私はそこに足を載せ、下半身丸出しのままじっと待機した。
そのまま30分が経った。誰も来ない。こんなにもやる気満々の体位を取っているのに、いつ診察が始まるのだろう。
滑稽な姿とは裏腹に、静けさが続けば続くほど不安の波がどんどん押し寄せてくる。
やがて廊下から、「先生の診察です」と言う声が聞こえ、私の心臓は跳ね上がった。しかし、足音と「先生」らしき声はこちらには向かって来ない。どうやら隣の診察室に入っていったようだ。
いよいよ次だ。緊張したまま私は待ったが、先生は一向に隣の部屋から出てくる気配がない。そのうち壁の向こうから、女性の微かな啜り泣きの声と、どう考えても深刻そうな先生の声が聞こえてきて、全身の毛穴からどっと汗が噴き出した。
(なぜ、こんなに壁が薄い造りに?!)
心臓が変な音を立てていた。あの啜り泣きは、次に私が立てる啜り泣きかもしれなかった。向こうの部屋に溢れる恐怖と不安が、この部屋にも壁を越えてドバドバと浸潤してきたようで、私は今すぐ診察室を飛び出したくなった。
しかし、である。
よりによってこのタイミングで、猛然と腹が減ってきた。
食べづわりだ。
部屋にはお菓子が用意されており、「ご自由にお食べください」と書かれていたが、お菓子なんてとっくに食べ尽くしていた。今、手持ちの食品といえば京都駅で念のためにと購入したサバ寿司だけだ。
見つかったら怒られるのではないか。しかし診察がはじまってしまえば、もう何も食べることはできない。今ここで食品を口に詰めなければ、強烈な吐き気が襲ってきてしまう。
考えている時間はなかった。
私はカバンの中からサバ寿司を取り出すと、診察台の上にあぐらをかき、下半身裸のままもりもりと食べた。
感受性と味蕾は離婚していた。啜り泣きをBGMに食べるサバ寿司は、とんでもなく美味しかった。サバの酸味と米のふくよかな甘さが、全身の細胞一つ一つに沁み渡った。私がどれだけ迷っていても、不安でも、私の体の方は変わらず食べ物を欲し、腹の中の子を育てる気満々なのである。そのことが、なんだか心強かった。
箱の隅の米粒一つまで搔き出して平らげ、美味しいものを食べた余韻に浸りながら、私はさらに30分ほど待った。
あまりに待ちすぎて、だんだん感覚が麻痺してきた。不思議なことに、腹が満たされた途端に腹が据わってきた。
ここで不安がっていても仕方がない。お腹の子はお腹の子だし、その子がどんな子であろうと、私が今ここでできることは、何もない。それなら今どんなに怖がろうと意味がないじゃないか。
突然、診察室のドアが開き、黒髪を一つにまとめた年配の女性が入ってきた。わざわざ彼女の診断を仰ぎに全国から妊婦が集まってくる、このクリニックの院長だ。
彼女はカルテに目をやったまま「はいはい」と言いながら、おもむろにチューブの中のゼリーを機械の表面にぶちゅっと出すと「はい、じゃママ、見てゆきますからね」と言い、私の術衣の前を開けてお腹を出した。
ついに、はじまった。
先生はものすごく早い手捌きで機械を操作しながら、あちこちにエコーをあて、ぴっぴっと赤ん坊のあらゆる体の部位の長さを測定してゆく。
「ふんふん」
「ふんふん」
「ふんふん」
エコーの角度を変えるたびに、先生は「ふんふん」と言う。
時折手や表情が止まり「ふんふん」の間が開くごとに、心臓が口から飛び出しそうになった。
どうか、どうか、なんの異常もない「ふんふん」であって欲しい。
私は全神経を聴覚に集中させ、その「ふんふん」がOKの「ふんふん」なのか、何かを検知した「ふんふん」なのか聴き取ろうとしたが、何一つ窺い知ることはできなかった。
数分間ののち、おもむろに「はい、じゃ、4Dエコー見ます」と先生が言い、次の瞬間ぱっと画面が白黒から立体の映像に切り替わった。とたんに肌色の、ぬめりけのあるほら穴のようなものが映し出され、その中央に胎児がいた。
「すずめの焼き鳥」に似てる!と思った。学生時代に京都の伏見稲荷神社を訪れた時に参道で食べた、すずめの焼き鳥にそっくりだった。
よく見ると目も、口も、鼻もあり、一定の間隔でぴょこぴょこと動いていた。この世に生を受けてわずか11週にして、ちゃあんと立体で、色も奥行きもあり、息をして動く、れっきとした、ヒトだった。
ぶわっと嬉しさと興奮とが湧き、同時にこう思った。ああ、この人は、無事に産まれるかどうかもわからない時期から、すでに他人によって本人も知らない自分に関するあらゆることを調べられ、計測され分類され、座標に置かれ、勝手に正誤か優劣かわからないけど、外の世界の価値観を貼り付けられるのだ、と。
先生は相変わらず「ふんふん」と言い続けている。私は目を皿のようにして先生の表情を窺った。このプレッシャーから早く逃れたい、早く終わって欲しい、という気持ちと、異変を見逃さないよう丁寧に診て欲しい、という気持ちとがせめぎ合い、時間が途方もなく長く感じられた。
先生はパッと機械から顔を離すと、「はい、まぁ、見る限り目立った異常はありません。あとはカウンセリング受けてね」と言い、目にも留まらぬ速さで診察室を出て行った。
あまりにも呆気なかった。先生が診察室に入ってきてから出てゆくまで、わずか5分だった。最後まで先生は私の名前を呼ぶことも、目を合わせることもなかった。
診察室を出てしばらく待ち、院内のカウンセリングルームでカウンセリングを受けた。カウンセリングは先生ではなく別のスタッフが担当した。東京にいる夫もオンライン通話で参加した。
「今回の検査では、現段階で調べられる染色体異常の兆候は見られませんでした」と彼女は言った。
「鼻骨が平均より少し短いようですが、まあそれは大丈夫でしょう」
どっと体中の筋肉が緩んだ。何もやり遂げていないのに、何かをやり遂げたような達成感が湧いてきた。
私はいつの間にか、赤ん坊に異常がある、という前提で検査を受けていたことに気付いた。
「念のため、血清マーカーをやりましょうか?」と聞かれたので、私は(やらなくていいかな)と思いつつも申し込み、会計を済ませて外へ出た。合計で9万円ほどだった。
それから再び地下鉄に乗って新大阪まで戻り、新幹線に乗って東京に向かう間じゅう、私はスマホで「鼻骨 短い 障害」「鼻骨 短い 何ミリ」と検索し続けた。自分が阿呆みたいに感じられたが、その言葉に取り憑かれたみたいに、それ以外のことがまるきり頭に入らなかった。
翌々日、東京の自宅に検査結果の用紙が送られてきた。ぺらっとした紙1枚には、ダウン症や18トリソミーなどの染色体異常である確率は、限りなく低いということが書かれていた。
受けてよかった。
それがもっとも率直な、その時の気持ちだった。
検査結果に対する安堵というより、ここ数週間の胸のつかえが取れたことに対する解放感が大きかった。むしろ、いちどこの検査を受けたことで、もし生まれてきた子に障害があったとしても、その時はその時で受け入れよう、この子はきっと私たちのもとに生まれてくる運命だったのだ、と思える気がしてきた。
そもそも出生前診断で判明する病気や異常は全体のごくごく一部であって、多くのことは生まれてからでないとわからないのだ。
カウンセラーは「中期検査を受けますか?」と言ったが、私にはもうじゅうぶんに感じられた。もちろん、そう思ったのは、検査結果の紙にとても低い確率が記されていたからだ、とも理解していた。
検査のあと、お腹の子への愛情は日増しに強くなっていった。
私の中でこの検査は「知った」というより「会った」に近かった。顔も知らずに文をやり取りしている恋人に会った平安時代の貴族ってこんな感じかな、と思った。その一方「この愛情は、子どもに障害がないと知ったからこそのものではないか」という疑念も、同時に湧いてきた。
「仕方ないよ。無条件の愛なんてないもん、人間だもの」と、しぃちゃんは言った。
「私も自分の娘に対して、顔がかわいかったらいいなとか、頭がいい子に育って欲しいとか、色々考えちゃう。社会の中で子どもが少しでも有利な条件で生まれて欲しいって思うのは、生存本能として当然のことやんか。……もちろん、そんなふうに感じなくて済むならどんなにいいやろなっていつも思うけどね」
その言葉に半分納得はしたものの、もやもやとした気持ちが変わらず胸の中に残った。いったいそれはなんなのだろう、としばらく考えていたが、その後、ぼんやりとパラリンピックを見ていた時に、不意に気付いた。
私は障害のある子を産むことが怖いんじゃなかった。
障害のある子を産んだ時、世間から「親の愛でどうにかしろ」と言われることがいちばん怖かったのだ。
社会的な差別のまなざし、福祉の欠如、母親だけに育児の負担がかかる社会構造――それらすべてが、障害のある命を育てにくくしている。それらをカバーするために、私たちは当事者、つまり産んだ本人の愛に頼らざるを得ない。
たとえ、助けの少ない中で苦しみながら育児を続けていたとしても、周囲からは「親の愛があるからできることだよね」と勝手に納得され、また、もしそれで万が一どうにもできない状況に陥った時にさえ「親の愛があればできるはずでしょ」と突き放されるのではないか。そのことに対する怖れがあるからこそ、私は出生前診断を受けたかったのだ。
障害のあるなしが怖いのではない。
「親の愛」にすべてを一元化する現代社会の構図が怖い。「親の愛」への勝手な幻想ゆえに起きる孤立が怖い。
その皺寄せが、巡り巡って我が子に行くのがいちばん怖い。
そしてそれは、障害のない子を育てていたとしても、いつ何時でも起き得ることなのだ。
けど、親の愛はスーパーパワーではない。親として責任を取ることと、親の愛ですべてをなんとかすることはイコールではない。にもかかわらず、家族愛と親を過剰に信仰する現代の日本では、それが一体であるかのように語られる。
もちろん障害のあるお子さんを育てている親はたくさんいるし、とてもしあわせだ、と言う人たちもいて、それはきっと本当だろう。けれど一方で「親の愛と労力だけでどうにかなった人」たちだって「親の愛と労力だけでどうにかする必要」は別になかったし、彼らに対する支援が足りていたという証拠にはまったくならない。
パラリンピックのように頑張る障がい者は賞賛され、もてはやされるが、その一方でそうならなかった時の周囲の視線は、本人にも、それを育てる親にもとても冷たいし、支援も足りてない。にもかかわらず親の愛でなんとかできている人たちもいるんだからお前もなんとかしろ、と言われることが、私はいちばん怖い。
自分の子どもに障害があることは、正直、全然怖くない。
日本では出生前診断を受ける妊婦の割合は全体の約7パーセントで、先進国の中ではとても少ない。それは女性の自己決定権についての意識が低いことに加え、「どんな子が生まれても、親の愛で受け入れるべきだ、それが親というものだ」という社会的な偏見もまた影響しているだろう。
しかし、どんな子育ても、社会の協力なくしては成り立たない。生命の選別をするのは優生思想だ、というのはとても簡単だけど、この「親の愛」、とりわけ母の愛情のみに過剰な期待が寄せられ、皆でなんとかするという発想に至らない社会の中では、産み手だけを責めるのは、対岸の火事に向かって石を投げつけているだけのように私には感じられる。
これを書いている現在、私の横には赤子がいる。
赤子の顔を見ていると、狂おしいまでの愛が湧いてくる。私の体積や、これまで生きてきた経験の総量、人の抱えられる感情の容量、すべてを凌駕するほどの愛情の容積にこちらがびびってしまう。
もしこの子が障害を持って生まれてきたとしても、この量は絶対に変わらなかったと自信を持って言える。けど、そのことと、ここまで私が書いてきたことや、あの時抱えていた迷いとはなんら矛盾しない。一つ残らずすべて、生まれなければわからなかったことだ。
そして、そのことを、今私が手にしている「結果」を、あの2021年の夏、オリンピックとコロナ禍という、社会的な混乱と動揺の中で、自分と赤ん坊の未来について不安を抱えていた妊娠中の私に伝えるすべは、一つもないのである。
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