兵庫県・有馬温泉の宿でブランドディレクターを務める金井ラミヤ(良宮)さんは、北アフリカ・モロッコで生まれ育った。約20年前の来日時から、いま「ブランドディレクターときどき女将」と名乗れるようになるまでには、アイデンティティを巡る葛藤があったという。有馬温泉を訪れ、ラミヤさんに話を聞いた。(ライター・我妻弘崇)
「有馬温泉は、フラットな場所でした。当時は、今のようにインバウンドが多くない時代。大阪や京都へ行っても、個人のアイデンティティは軽視されがちで、『外国人はこういうのが好きなんですよね、苦手なんですよね』と、外国人として一括りに扱われてしまう。でも、有馬温泉は違ったんですよね」
そう振り返るのは、兵庫県・有馬温泉の宿「御所別墅(ごしょべっしょ)」のブランドディレクターを務める金井ラミヤ(良宮)さん。北アフリカ・モロッコで生まれ育った彼女は、19歳のとき神戸大学工学部へ留学。そこで、有馬温泉「御所坊(ごしょぼう)」主人の息子さんと出会い、後に結婚する。現在、ラミヤさんがブランドディレクターを務める「御所別墅」は、「御所坊」の系列旅館となる。
有馬温泉は、『日本書紀』にその名が記され、太閤秀吉をはじめ数々の偉人に愛されたことでも知られる。日本最古の湯治場にやってきた「モロッコ人の若女将」――。私をはじめとしたメディアは、そのユニークな経歴から取材をオファーし、昨今はラミヤさんのメディア露出も増えている。
だが、冒頭の言葉を聞いて、恥ずかしさを覚えた。「“外国人女将”として苦労されているのでは?」。そんな主語の大きな言葉で、質問をしようとしていたからだ。“木を見て森を見ず”ならぬ、“森を見て木を見ず”ではないか。
「私自身そうですけど、アイデンティティは進化していくもの。いろんなことを体験していくから、自分のアイデンティティってどんどん進化していくと思うんです」(ラミヤさん、以下同)
有馬温泉が、彼女にもたらしたものとは何か。話を訊いた。
「当時は、まだ日本の情報が少なかったため、“不思議な国”という印象でした。高校3年生のとき、地元の新聞に文部省(当時)の奨学金で日本に留学できるという広告が掲載されていたので、応募してみたんですね。
日本は伝統的なイメージがありながら、製造業などテクノロジーの分野でも活躍している。また、資源が少ない国にもかかわらず経済大国。モロッコも資源が少ない国なのに、どうしてそんなに発展したんだろうって」
兄がロシアへ留学していたこともあり、ラミヤさんも遠い国の文化を体験したかったという。日本からの留学の返事を待つ間も、「日本に行けなかった場合、大型船の船長になりたかったので、高等海事学院に入った」というから筋金入りだろう。
2000年、ラミヤさんは、コンピューターやプログラミングについて学ぶため、神戸大学工学部に留学する。
それまで日本とモロッコの間では、文部省奨学金の留学制度が11年間続いていた。しかし、ラミヤさんの留学は、モロッコから日本に来るケースでは、女性初だったという。「私が来日した当初は、日本全国でモロッコ人は380人ほどしかいなかったんですよ」と笑うが、裏を返せば、どこへ行っても特異な存在として見られたということだ。
大学1年生の夏休みに、後に夫となる一篤さんから「有馬でお祭りがあるから遊びに来ませんか」と誘われた。
「モロッコにはアトラス山脈がありますから、温泉が湧いています。また、ハマム(浴槽がない蒸し風呂)という浴場文化もあります。ですが、温泉街や旅館のような文化はありません。女将である義母の姿を見ていると感じるのですが、空手に“型”があるように、お客様を迎え入れる、案内する……すべての所作に“流れ”があるんです」
「心地よかった」。有馬温泉で初めて体験したおもてなしを、そう回想する。
「“外国人だから”ではなく、一個人としてフラットに扱ってくれました。おもてなしの“流れ”の中で、普通の会話をしながら接してくれる。そのときから、有馬温泉は素晴らしい場所だと、ずっと思っています」
一篤さんと結婚後、ラミヤさんはすぐに有馬温泉に来たわけではなかった。
「彼は、いずれ有馬温泉の旅館を継ぐことになるだろうけど、私は私のキャリアを選ぶという気持ちでした」と語るように、ラミヤさんは大学卒業後、東京でマーケティングの仕事に就く。さらには、フランスのビジネス・エリート養成機関であるESSECビジネススクールでブランディングを学ぶため、一篤さんとともにフランスへ留学した。
その後、2011年に東日本大地震が発生したことで、2人は帰国。この時期、多くの在留外国人は原発事故の影響などで日本を離れたが、ラミヤさんは「夫の家族をはじめ、みんなが大変でしたから、一つになって乗り越えないといけないと思いました」と振り返る。
「このときに戻っていなかったら、多分今の私たちはいなかったです」。そう感慨深げに微笑むが、「御所坊」を手伝い始めたばかりの頃は、自信はまったくなかったという。
「日本に留学こそしていたけど、有馬の伝統に関しては知らないことだらけでしたから、自分に何ができるんだろうと思っていました。でも、地震が発生する少し前から、有馬温泉には外国人観光客が増えている状況だったので、対インバウンドという観点であれば、自分なりに何かできることがあるかもしれないって」
その一方で、有馬温泉有数の古宿「御所坊」にやって来たモロッコ人女性に、好奇の目も注がれた。さらには、着物を着ての接客といった「若女将」としての役割も期待されるようになる。
「とてもじゃないけど背負いきれない。ですから、私はブランドマネージャーという肩書きで、ブランディング的なことをお義父さんや夫に提案していました。でも、周りのイメージで、勝手に“女将”として担がれていく感はありました(苦笑)」
「インポスター症候群のような状態でしたよね」。ラミヤさんは、ポツリとこぼす。
インポスター症候群とは、仕事がうまくいっていても、「これは自分の力によるものではない」など、自分の能力や実績を自身で認めることができない心理状態のことを指す。周囲の期待と、自分の実績にズレが生じることで、ラミヤさんは「戸惑っていた」と告白する。
「『何かあったら連絡してね』とか『何でも話してね』と心配してくれることが、そのまま期待の裏返しなんだろうなと感じていました。よく、『日本人より日本人らしい』というような言い方がありますよね? でも、それは良いように取れる半面、プレッシャーにもなるんですね」
私たちはときに、「外国人だから」と一概にくくろうとする。「外国人だから納豆は苦手だろう」「外国人だけど日本に詳しい」、あるいは「外国人なのに箸の使い方が上手いですね」なんて。
だが、こうした眼差しが、個人のアイデンティティを軽視する可能性があることを、“外国人若女将”という期待を背負ってきたラミヤさんの言葉は、説得力をもって教えてくれる。
極端なイメージで解釈するのではなく、その人に合う“いい湯加減”を探す一手間。ラミヤさんは、自身が体験したからこそ、有馬を訪れたインバウンドへのおもてなしにもこだわりを持つ。
「たとえばイスラム教徒の宿泊客がいたとしたら、食べられないものばかりだからどうしよう、と考えがちです。しかし、同じイスラム教徒でも、個人の考え方によって食事にどこまで求めるかは、人によって濃淡があります。一歩間違えると、“思いやり”ではなくて“思い込み”になってしまう。『何を求めるか』を聞いた方が良いのです。
私は、国の文化も大事だけど、個人の文化も尊重することが大切だと思います。有馬温泉に来るインバウンドの方々は、日本の文化を体験しに来ている。私たちがその国の人たちのアイデンティティを過剰に考えるあまり、日本を楽しもうと思っている人たちに対して、押し付けのようになるのは違うと思うんですね」
現在、ラミヤさんの肩書は「ブランドディレクターときどき女将」だ。
「ちょっとだけ昇格」といたずらっぽく笑い、「自分と環境を調整していった結果、自分のアイデンティティが進化したと思います。少しだけだけど女将と名乗れる自分がいる。少し前なら、メディアに登場することなんて恐れ多くてできなかった。単に珍しさだけで取り上げられるのは本望ではなかったですから」と微笑む。
「有馬温泉という場所だったから、成長できたのだと思います。有馬は阪神淡路大震災を含め、いろいろなことを乗り越えてきた背景を持ちます。伝統を大事にしながら新しいことに挑戦し、温泉街自体のアイデンティティも進化している。柔軟性のある街だからこそ、私もいろいろなことを提案でき、自分と向き合うことができました」
「和室+ベッド」タイプの客室がある。実は、そのはじまりは有馬温泉にあり、日本で初めて「和室+ベッド」タイプの旅館をプロデュースしたのは、ラミヤさんの夫の父である金井啓修さんだった。柔軟な発想を持つ義父がいたということも、ラミヤさんのアイデンティティを進化させる一因となった。
啓修さんは、「彼女にしかできないことがイノベーションになると思っています。そういう力を発揮してほしい」と期待を寄せる。外国人女将としてではなく、金井ラミヤという「個」への期待だ。
「ようやく商品や温泉をプロデュースできるようになってきました。やっぱり段階が必要だったのだと思います。私がブランドディレクターを務める『御所別墅』は、小さい宿ということもあるので、背伸びをする必要もないので、できるところからという感じです。
その上で、有馬温泉のアイデンティティと、国内外から足を運んだ来訪者のアイデンティティが上手に融合するようなものを作っていきたいです。学生時代の私が感じた純粋さ、心地よさを提供できたら」
“思いやり”が“思い込み”にならないように。彼女の“おもてなし”は、大切なことを伝えてくれる。