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「もう少し地味にしましょうお祝いは」謎看板の裏に隠れた意外な歴史
「門松カード」に通ずる戦禍からの再起
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「門松カード」に通ずる戦禍からの再起
街中を歩くと、様々な看板が目に入ります。何げない存在ですが、よく見ると、謎めいた文言が書いてあることは少なくありません。今秋、SNS上をにぎわせたものも、その一つです。祝宴の簡素化を勧める、七五調の標語。一体、何のために設置されたのか。背景事情を調べてみると、人々が戦禍から再起する過程で生まれた、意外な歴史に行き当たりました。(withnews編集部・神戸郁人、金澤ひかり)
今年9月、一本のツイートが話題になりました。添えられているのは、福井県越前町内の路上で撮影されたとみられる、古びた看板の写真です。そこには、こんな標語が書かれています。
「もう少し 地味にしましょう お祝いは」
標語の下に視線を移すと、越前町と、同町壮年連絡協議会の名前が書かれています。どうやら看板の設置主体のようです。この投稿に「地元で似たような貼り紙を見たことがある」といった声が、相次いで寄せられました。
看板は、本当に存在するのか。Googleマップのストリートビューで、同町内を調べてみました。すると国道305号線の日本海寄りの地区に、確かにありました(2018年7月撮影)。
どんちゃん騒ぎをいさめ、倹約を呼びかけるかのような、今回の看板。本来自由であって良いはずの祝宴のあり方に意見する、という点で、やや奇妙にも思えます。どんな目的で作られたのか、越前町役場の担当者に聞きました。
いわく、看板があるのは、同町大樟地区の住宅街です。あるテレビ番組が取り上げて以降、詳細に関する問い合わせが増えたのだといいます。ただ、はっきりした由来は伝わっておらず、毎回取材に「詳しくは分からない」と答えてきました。
そこで担当者は、同地区出身の職員に、何か知っていることがないか尋ねてみることに。すると、こんな答えが返ってきたそうです。
「地元には数十年前、小さい子供に対しても、(比較的高額な)1万円のお年玉をあげる習慣があったと聞いています。お祝い事うんぬんというより、それを控えようという意図もあったのではないでしょうか」
結局、制作経緯の解明には至らなかったものの、地域文化と関係があるのではないかと、担当者は教えてくれました。
看板にまつわるツイッター上の感想で、何度か言及されていた語句があります。「新生活運動」です。日常的に耳にすることは、ほとんどない言葉。一連の反応から察するに、各地で行われてきた、生活の仕方を改める運動を意味するようです。
ページ上には、「新生活運動シール」のPDFデータも添付され、自由にダウンロードできるようになっています。運動の趣旨にのっとり、香典袋(不祝儀袋)に貼り付け、香典返しを遠慮する意思を伝えるためのものだそうです。
また群馬県高崎市は、新生活運動を「市民が自らの創意と良識により、物心両面にわたって日常生活をより民主的、合理的、文化的に高めることを目指して行う」ものと定義。環境美化や自然保護を含めた、生活課題解決の取り組み全般を指すとしています。
ちなみに今年11月下旬、同県内に残るという文化についてのツイートが拡散されました。葬式会場で香典を手渡す際、「新生活です」と伝え、香典返しを辞退する習わしを紹介するものです。新生活とは、恐らく新生活運動の略語かと思われます。
高価で大量の樹木を必要とする門松ではなく、イラスト入りのカードを玄関先に貼り出す。そのような考え方は、高崎市が提示していた、新生活運動の定義にも合致すると言えそうです。
とはいえ、新生活運動という単語に、そもそもなじみがない人も多いかもしれません。そこで、この分野について研究している、昭和女子大人間文化学部の松田忍准教授(日本近現代史)を取材しました。
松田さんによると、新生活運動が盛り上がったのは、太平洋戦争の終結から間もない頃のことです。
当時の日本は敗戦で壊滅的な打撃を受けていました。民主国家に生まれ変わるため「日本人」のアイデンティティーを再構築し、国民が団結する必要があったのです。第一歩として、家庭や共同体の生活を改善する意義が説かれたといいます。
「新生活運動における『生活』は、今で言う道徳や道義といった意味を伴います。特に1950年代以前、どんなポリシーを持ち生きていくべきか考える文脈でも使われました。寝食や家事育児などの私生活とは異なるニュアンスがある概念なんです」
「自律的に暮らしをアップデートすることと、国家の再建は直結している。だからこそ、家庭や地域の伝統的な生活様式を更新し、質を高めていかなければならない。運動を進める人々の間では、そうした精神性が共有されていました」
もっとも、封建的な習俗を見直す取り組みは、戦前から各地で芽吹いていました。これを側面支援する目的で、1955年に全国組織「新生活運動協会(現・あしたの日本を創る協会)」が誕生するなど、運動はますます盛んになっていったのです。
では、具体的にどういったことが行われたのでしょうか? 松田さんいわく、1950年代の「家族計画運動」は象徴的事例の一つです。
たとえば工場や炭鉱の労働者に、企業が避妊法を教える場合がありました。加えて一人ひとりに「実行歴」を申告させるなど、かなり踏み込んだ内容だったのです。現代の感覚からすると問題ですが、明確な理由付けがなされていたといいます。
「子供の数が減ると夫婦間の交流が増え、わが子の進学計画も立てやすくなる。企業にとっては働き手の業務効率向上が見込めます。戦後に深刻化した過剰人口問題の解決につながれば、国家の発展にも寄与する。当時の社会では三方良しです」
「家族計画運動は、政治的権威に押しつけられたものでも、市民からの要求だけで行われたものでもありません。かつての国と地域共同体、企業及び家庭の利害が一致していたからこそ、実現したのです」
広く実施されたものとして、「蚊とハエをなくす運動」も挙げられます。村落内の便所に殺虫剤をまき、肥だめを適切に管理し、害虫を撲滅する趣旨です。「乳牛にたかる虫が減り乳が出やすくなる」と宣伝されるケースもあったといいます。
さらに冠婚葬祭の簡素化、家計の合理化など、そのバリエーションは実に多種多様でした。そして一連の試みが、「話し合い運動」という共通の軸に貫かれていた点こそ重要だと、松田さんは強調します。一体、どういうことでしょうか?
古い習慣を改めるには、地域の人々を説得し、志を共有しなければなりません。しかし従来、とりわけ地方においては、青年団や婦人会といった住民組織が力を持ってきました。性別や年齢、階層により、人付き合いの幅が限られていたのです。
一方、新生活運動は「全員参加」が基本です。嫁と姑が家庭の問題について協議する。夫婦で村落の寄り合いに出向き、家族計画を話し合う。そうやって、立場を問わず対話可能な環境をつくることで、因習の打破を目指したのだといいます。
ところで、冒頭で触れた越前町の看板には、祝宴の規模縮小を勧めるスローガンが書かれていました。同じような活動は、全国規模で行われていたのでしょうか?
「看板を通じてメッセージを伝える機会はあったでしょうが、正確なところはわかりません」と松田さん。設置箇所などに関する統計も残っておらず、実情は不明とのことです。ただ越前町の事例からは、興味深い情報が読み取れるといいます。
看板の設置主体は「越前町 町壮年連絡協議会」となっています。この点を踏まえると、男性たちを巻き込みつつ、運動が展開されていたことが推測できるそうです。
「壮年団とは既婚男性らがつくる住民組織です。かつては家長の集団とされていました。彼らは結婚式の祝儀の金額や、お祝い事で用いる飾りつけの詳細について、決定権を持っていた。そうした層の共感も得られていたのではないでしょうか」
「家の資産の管理を、いつまでも男性だけに任せていて良いのか。そのような問題意識が、地域全体で共有されていた可能性があります。いわば『人間関係の民主化』が、一定程度達成できていたからこそ、出せた看板なのだろうと思いました」
新生活運動は、社会の一員としての自覚を人々に芽生えさせました。しかし高度成長期を経て、1970年代以降、下火になっていきます。大量消費時代の到来で、農村部から都市部への人口流出が加速し、地域共同体の維持が難しくなったからです。
「ただ松戸市の門松カードなど、新生活運動的な取り組みとして、今も続く営みはあります。冠婚葬祭を始め、人間関係や恒例行事にまつわる習慣は、比較的親しみやすい。そういったものほど、長く受け継がれる傾向が強いのかもしれませんね」
ここまで見てきた通り、新生活運動には地域民を統合するという特徴があります。愛郷心や愛国心を育む一方、同調圧力を強める側面も否定できません。ともすれば、個人の思想を抑圧してしまう危うさを、常にはらんでいたと言えるでしょう。
しかし戦争に打ち壊された社会を立て直す上で、人々の生きる指針となってきたのも、また事実です。門松カードを始めとした類似文化が、世代を超えて受け継がれていることは、幅広く支持を集めた証であると思われます。
流行の背景には、時代遅れの習俗を変えたいという、市民たちの願いがありました。従来黙認されてきた、差別や偏見を強めうる様々な振る舞いに、厳しい視線が注がれる現代においても、新生活運動の精神性を活かせる余地は残っています。
ツイッター上で注目を集めた看板のように、往時の雰囲気を伝える遺物は、日常の中に案外あふれているものです。そうした事物を見かけたら、背景に横たわる歴史に思いをはせてみても、面白いかもしれません。
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