話題
10万羽、世界へ飛び立った「希望の鶴」 〝恩返し〟遺志を継ぎ
病を隠して助けてくれたあの人へ
「希望の鶴」って知ってますか?
普通の折り鶴と違い、折り方が難しく、見た目にも美しいこの鶴は、世界の要人たちの元や、戦禍のウクライナ国民や、東日本大震災の被災地にも飛び立っています。
その数、推定10万羽以上。
誰がどんな気持ちで折り、誰が広めたのでしょうか。折り鶴をたどると、さまざまな人生をかけた祈りが見えてきました。もう届けられない〝恩返し〟を続けたいと願う人たちも……。
少し長くなりますが、読んでみてください。
2011年夏、東日本大震災で壊滅的な被害を受けた宮城県石巻市の仮設住宅団地に100羽ほどの折り鶴が届けられました。
一般的な千羽鶴と違い、羽を広げると扇のよう。表裏が金色と赤色で、立てて飾るととても優雅でした。
差出人は「東京都世田谷区・・福田貴代子」。
福田さんは、東日本大震災が起きてからずっと、夜中に1人、鶴を折り続けていました。最初は、東北から東京で240人の震災被災者を受け入れていた赤坂プリンスホテルに、名乗らずに直接持って行きました。ホテルの殺風景な部屋に置いて、少しでも彩りになればと思ったからです。原発避難者らが暮らす都営住宅にも届けました。
被災地で不自由な暮らしをしている人たちの心を和ませることはできないかと、新聞記事に載っていた石巻市の仮設住宅の住民の元にも、折り鶴を贈りました。
名前も住所もなければ不審がって受け取ってくれないと思い、今度は書きました。この鶴は、3年前に北海道・洞爺湖であったサミット(主要国首脳会議)の場でも各国首脳の夫人に贈られたことがあったことも手紙に書き添えました。
被災者の一人が気づきました。「福田貴代子って、その時の首相夫人じゃないのか」
福田さんは夫の康夫さんが首相になった後、この鶴の折り方を覚え、各国を来訪したり、首脳会議があったりすると、お土産に渡してきました。
当時、「折り鶴外交」と呼ばれ、マスコミに取り上げられました。各国の大使や日本から赴任する大使にも贈られ、世界中に飛んでいきました。
折り鶴が届いた当時の石巻市には、多くのボランティアが来て、様々な支援をしていました。その中でも、横浜市から来た落合早苗さんの決意は並大抵のものではありませんでした。
鶴見区で小学校の校長をしていましたが、児童や教師の多くが犠牲になった大川小学校の惨事を知って、いてもたってもいられなくなりました。任期を残して、震災直後の2011年3月末で退職し、荷物や人がのせられるワゴン車を買い、1人で石巻に向かいました。
学校周辺ではまだ、我が子を捜す親たちの叫び声やうめき声があちこちから聞こえていました。1週間はただぼうぜんと立ち尽くすだけでしたが、やがて積んで来たテントで寝泊まりしながら、遺体捜索の手伝いや、泥の中から見つかった遺品を洗って遺族に返すボランティアなどをしました。
仮設住宅が建ち始めると、集会場で手芸教室など引きこもりを防止するイベントを開き、心の癒えない人たちの話をじっくりと聞き、要望があればすぐに対応しました。
東京の「福田貴代子さん」から折り鶴が届いたのは、その頃でした。
落合さんは、福田さんに感謝しつつ「もらうだけでなく、被災者自身が折れないか」と考えました。
「折った鶴を売って、集会のお菓子代にでもなれば、気持ちも前向きになるだろう」
落合さんは翌12年3月、福田さんを石巻市に招き、住民を集めて折り方を教えてもらいました。
落合さんと養殖漁師の佐藤のり子さんや、主婦の佐々木洋子さんら仮設住宅の住民3人を中心にした、「希望の鶴 飛翔プロジェクト」が始まりました。
普通の鶴と違い、折り方が複雑で、慣れないと一つ折るのに20分以上かかります。紙にしわができたり顔が下を向いたりすると売り物にならないので、上手に折れるまでには1年以上かかりました。指紋がすりきれるくらい練習して、やっと落合さんの厳しい目で見ても、見事な出来栄えになりました。
しかし、できた折り鶴の売り先がありません。落合さんは、プロジェクトメンバーの2人を連れて石巻市内のホテルの結婚式の引き出物やお祝い事などに使ってもらおうと、お願いに歩きましたが、20軒近く回って全て断られました。
「鶴はいいが、被災後の今は、それを買う費用があれば食事を増やしてあげたい」。仕方ないことでした。
被災地では売れそうもない。落合さんは、福田さんに相談しました。福田さんは表に出たくありませんでしたが、ここは「自分が営業部長にならなければ」と腹をくくりました。
13年秋、康夫さんの母が亡くなり、しのぶ会を帝国ホテルで開くことになりました。福田さんが、その担当者に事情を話すと共感してもらい、海外要人の部屋に置いたり、ホテル内の店で販売したりしてくれるようになりました。
福田さんは縁のある都内の有名ホテルや大阪や福岡など、つながりがあるホテルや、テレビで見ただけのホテルにも次々と、「希望の鶴」を売り込みました。
パーティー用などに100羽、200羽と注文が舞い込むようになりました。日本航空はカウンターや機内に置きました。「海外旅行の土産にしたい」という友人もいました。
多い時は月に3500羽ほどの折り鶴が、石巻から飛び立って行きました。10年間で、10万羽以上が飛び立ったそうです。
1羽折ると、材料費や郵送費を除いて100円の収入になります。「娘の成人式の振り袖を買うお金に」と精を出していたプロジェクトメンバーの佐藤さんは、乳がんを患っていました。
「折っている時は、つらさを忘れられる。被災した人たちもみんなそうだった」。そう当時を振り返ります。
落合さんは退職金をはたき、石巻市の空き店舗を改造して被災者が作った手芸品を売る店を開き、運営も被災者自身に委ねて自立を支援しました。
2016年4月に熊本地震が起きると、今度は石巻から熊本の仮設住宅にカレンダーを贈る活動などをしました。
石巻では、被災者は仮設住宅から出て、プロジェクトメンバーの佐藤さんのガンも寛解し、被災地はだんだんと日常を取り戻して行きました。
「希望の鶴 飛翔プロジェクト」の次の目標は、東京五輪になりました。
「復興五輪と銘打ったのだから、被災地で折った鶴を、来日した選手や関係者に贈り、今までの支援を感謝しよう」
しかし、準備を始めた矢先に、コロナ禍でその構想は吹っ飛んでしまいました。1年遅れで五輪は開催されましたが、厳しいコロナ対策で、鶴を渡すことは叶いませんでした。
そして、さらに悲しい知らせがプロジェクトメンバーに届きました。落合さんが亡くなったのです。
プロジェクトメンバーの佐藤さんが、落合さんに何度電話しても連絡がないことを不審に思っていると、横浜の教育関係者から訃報を知ったそうです。親類を捜して連絡を取ると、2020年の11月に、がんで亡くなっていたことを知らされました。
プロジェクトメンバーの佐々木さんは、落合さんが亡くなる4カ月前、石巻で会っていました。でも落合さんは病気のことは何も話していませんでした。「元気だったけど、今から思えば、後を託すような気持ちがあったんだろうなあという思う節はありました」
佐藤さんと佐々木さんは、せめてお墓参りを、と落合さんの親類から場所を聞いて驚きました。落合さんの遺骨は、本人の希望で石巻市から車で1時間ほどの宮城県内の寺の木の元に埋葬されていたのです。
桜の木の根元に、落合さんは眠っていました。横浜から来た桜だと知って、「ここがいい」と自分で選ばれたそうです。
熟したサクランボが1粒だけ、枝に残っていました。佐々木さんは「会いに来るまで残しておいてくれたのかな」と木の前で手を合わせました。
2人は「世話になるばかりで、『鶴の恩返し』ができなかったなあ」と悔やみます。
2022年。ロシアの侵攻で戦禍に見舞われたウクライナの大使館にも、希望の鶴は届けられました。
今年11月23日、落合さんの命日に、東京都内のホテルで10年を迎えた「希望の鶴 飛翔プロジェクト」に協力した人々に感謝する集いが企画されました。
福田夫妻や石巻の2人、在日ウクライナ大使、岩手県選出の鈴木俊一財務相ら50人がテーブルを囲みました。
スクリーンには、2年前に亡くなった落合さんの写真が大写しになり、校長の職をなげうって支援を続けた落合さんの功績が紹介され、参加者は運動の継続を誓いました。
筆者が取材を続けている岩手県にも「希望の鶴」の活動の輪は広がっています。
岩手町の大学生・竹花結乃さんは、中学生の時、体調を悪くして通った保健の先生を通じて落合さんのことを知りました。
「持ち歩けるキーホルダーにすればもっと広まるのでは」と考えた竹花さんは、つまようじを使って小さな鶴を折り、ケースに入れてストラップを付けてみました。好評で、国際会議の場などに使われています。もう1000羽くらい折ったそうです。
筆者が大槌町に駐在して復興を取材していた頃にも、福田さんが折り方を教えに来てくださいました。被災者が仮設住宅を経て入居した災害公営住宅の玄関には、今も「希望の鶴」が飾られているのを見かけます。
福田さんはもう2万羽以上を折り、まだ誰かのために役立つかもしれないと、折り続けています。
落合さんを取材した時の録音を聞き直しました。少し舌っ足らずの優しい声で、ゆっくりと話してくださったのですが、その目はいつも、ひたむきに輝いていたことを思い出しました。
「地震が来る度に、『子どもの元へ行けるのでは』とわくわくする」という女性に寄り添い続けている話や、被災者同士であえてもめさせて、解決する力が生まれるのを待つ話など、支援とはどうあるべきかを、身をもって教えてくださいました。
被災地だけでなく「いのちの電話」の活動もされるなど、利他の精神は、晩年まで変わりませんでした。
人の世話ばかり焼いていた落合さんですが、自分のプライベートな話はほとんどしませんでした。人には心配をかけないように、体調のことを誰にも言わずに旅立っていった最期は、落合さんらしいと思いましたが、もっと地上で奔走したかっただろうと思うと悔やまれてなりません。
災禍の時は「鶴より食料やお金」という声もあります。「希望の鶴」に携わった人たちは、そんな声もよく承知したうえで、少しでも何か自分ができることをという気持ちを込めて折り、時期を見た活用方法を考えました。
これまでの被災地取材で筆者は、ミスマッチな食料や衣類とか使い道に悩む寄付を抱えて困る人も見て来たし、一方で音楽や娯楽、手づくり品など、優先順位が低いと思われがちな支援に、精神的に救われたと話す人も見てきました。だからこそ、特に落合さんのような存在は貴重だったと思います。
落合さんの遺志を継いだ「希望の鶴」は、五輪で配れなかったこともあり、まだ多く残っています。なくなれば、また石巻の2人も折って、天国の落合さんへの〝鶴の恩返し〟を続けていきたいと考えています。
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