連載
電気も不通〝日本一小さい牧場〟だけど…手作りでシンプルに叶えた夢
「ただの放し飼い」と笑う牧場主
田んぼに囲まれた小さなスペースで、柵からひょっこり牛たちが顔を出す――。神奈川・厚木には「日本一小さな牧場」があります。小さい頃から牛乳が大好きだったという牧場主が、手間ひまをかけて「手作り牛乳」を販売しています。「夢」をかなえた河内賢一さんに、話を聞きました。(木村充慶)
「牧場」と聞くと、広々とした牧草地で牛たちが伸び伸び草をはんでいる、はたまた牛舎でたくさんの牛が過ごしている……そんなイメージを思い浮かべるかもしれません。
神奈川・厚木にある牧場「牧歌」は、100ヶ所の牧場を巡った私でも想像できないスタイルでした。
田園風景が広がる郊外に、残土を盛った小高い場所があります。
縦横30mぐらい、おおよそ牧場とは思えない小さなエリアです。そこで牛2頭、羊4頭、山羊2頭が飼われています。あるのは雨よけの二つの屋根と柵だけです。
今まで放牧や牛舎飼いといった様々な酪農スタイルを見てきましたが、どれにも当てはまりません。牧場主の河内さんは「ただの放し飼い」だと笑います。
電気も通っておらず、夜はヘッドライトを使って作業をするそうです。
驚くのは、こんなに小さな牧場にもかかわらず、牛乳やヨーグルト、チーズまでつくっていることです。
牧場から5分ほどのところに、自宅に併設された工房があります。
牛乳を殺菌したり、ヨーグルトを発酵・チーズを熟成させたり、製品の微生物検査をしたり……さまざまなことができますが、この工房もとにかくコンパクト。「ここですべての作業をしているの?」と疑ってしまうほどのスペースです。
「牧場から製造までおこなう日本一小さな牧場です」と河内さんは言います。
河内さんは小さい頃から牛乳が好きで、ごはんのおともはいつも牛乳。身長が低く、少しでも背が伸びたらと1リットルのパックを1日で2本飲んだ時期もあったそうです。
そんな河内さんが「酪農」と出会ったのは、高校1年の時に酪農を営む同級生の家を訪れたときです。
搾乳した生乳を溜めておく「バルククーラー」からすくって出された生乳を飲んだところ、そのおいしさに感動したと言います。
「将来は農業に関わればいいなとぼんやり思ってはいたのですが、生乳を飲んだ時の感動から酪農家になりたいと思うようになりました」
高校卒業後、北海道の畜産系の大学に進学。最先端の「ロボット搾乳機」の研究をしていました。
毎日の大変な作業「乳搾り」を自動で担い、1頭あたりの作業時間が減ってたくさんの頭数を飼えるようになります。生産性が向上するメリットはありますが、初期費用が重くのしかかります。
北海道のいろいろな牧場へ研修で訪れるうち、「自分には無理をせず、少ない頭数で自分のできる範囲で生乳を搾るやり方が合っているな」と感じたそうです。
卒業後は1年間の酪農実習を経て、地元の神奈川に戻りました。
牧場を始める資金をためようと、まずは牧場作業を手伝う「酪農ヘルパー」として働きました。
そこで分けてもらった生乳のおいしかったこと。
「牧場主たちは、自分たちで消費する牛乳は自身で殺菌して飲んでいます。殺菌と言っても鍋で牛乳を沸かすだけ。ゆっくりヘラでかき回しながら、湯煎で30分ほど温めます。その牛乳がものすごくおいしいんです」
おいしい牛乳の例としてよく挙がる「低温殺菌」の牛乳は、65℃で30分間、湯煎のような方式で温めます。その工程に近しい内容を手作業で行ったものでした。
この味を自分でも作りたいと、まずは自宅の一部を工房にリノベーション。
高価な機械は導入せず、シンプルな機材をそろえました。
お金がかけられなかった経緯もありますが、なるべく手作業で行う形になり、思い描くような工房になったと言います。
牛を飼える場所がすぐに見つからず、酪農ヘルパーとしてお世話になっている牧場に自分の牛を置いてもらって育てました。
作業後や休日に搾乳。生乳を工房に持ち帰って牛乳やヨーグルトなどを作っていたそうです。
自分で作った牛乳を自分で飲む。河内さんにとってはこの上ない幸せを手に入れました。
さまざまな牛の品種を飼って、牛乳やヨーグルトを製造していました。
「牛乳の味は品種によっても個体によっても違います。そういった牛乳の価値を知ってもらいたかったんです」
ただ、「自分で牧場をやりたい」という気持ちは強くなる一方でした。
場所は見つかっても、匂いを気にする地域の人からの理解がなかなか得られなかったそうです。
匂いの少ない子羊から飼い始めると、地域の人たちもかわいがってくれました。
子牛も連れてくると、そちらも人気に。地域の人々にも納得してもらいながら、8年かかってようやく今の牧場ができたといいます。
牧場は田んぼの一角のスペース。場所には限界があるため、頭数を絞って牧場を運営することにしました。
「設備投資などで多額の借金を抱える牧場主がほとんど。だからこそ、無理のないやり方を模索しました」
それでも、酪農は簡単ではありませんでした。
一般的な牧場は大量に生乳を生産し、農協などにまとめて出荷します。製造や販売はすべて代行してくれます。
河内さんは少量生産にこだわり、搾った生乳はすべて自分で牛乳やヨーグルト、チーズに製造します。自ら作るため、営業や販売などはすべて自分でしなければいけません。
少量生産ながら付加価値をつけて販売するスタイルを探求しましたが、しばらくして河内さんは酪農を「専業」にはしないことにしました。
酪農ヘルパーなど別の仕事を再開させ、生活を安定させながら、自分がやりたい「小さな酪農」をすることにしました。
「せっかく念願の牧場を作ったので楽しくやりたいと思ったんです。昼間は普通に働いて最低限稼いで、朝夕で世話をするスタイルにしました」
妻からも「ちゃんと給料をもらいながら、牧場運営も赤字にしないで、生活を維持できるように」と言われたそうです。
現在、牛は2頭のみ、牛乳の販売先は工房に併設した直売所と、地元の農産物直売所のみです。
「余って戻ってきたとしても、自分たちで美味しく飲めるくらいの量がいいなと思ったんです」と話します。
「そもそも私がおいしい牛乳を飲みたいと思って始めた酪農です。おいしく飲める範囲を超えたくなかったんです」と話す河内さん。
「私がやっているのは趣味の酪農です。だから、たくさん生乳を生産して、色々な所で販売している酪農家はすごいなと思います」といいます。
牧場を始めようとしたら、さまざまな施設をつくって大規模な機械を導入し、初期投資が必要となり、新規就農には大きな勇気が必要です。
通常、数千万かかるという工房も、河内さんは通常の10分の1くらいの費用で作り上げました。牧場も最低限の機器以外はほとんど自作したといいます。
河内さんは、「小さいからこそできること」にチャレンジしているのではないかと感じました。
牧場にいるヤギは、牧場のお客さんが「飼いたい」といったもの。今ではお客さんがほぼ毎日、牧場を訪れて作業を手伝ってくれているそうです。
来るものは拒まず、色々な人たちを巻き込みながら牧場を運営しています。
「視察で牧場に来る方もいますが、『牧場ってこんなシンプルな場所で気軽にできるんだ』『自分もやれるかも』と感じてもらえたらと思っています。もちろん、大変なところもありますが(笑)」
河内さんは、新たな酪農の可能性を示してくれている気がします。
河内さんに「今後、どのような牧場にしたいか」と尋ねると「10年くらいで牧場はやめるかもしれない」と驚く発言が……。
手間がかかる牛飼いはやめて、「羊を数匹飼いながら農園を作って楽しみたい」と話します。
趣味の延長としてはじめた牧場。河内さんは今後も、自分の気持ちのままに進めるようです。
もちろん、農業に携わることは簡単には決断できません。それでも、通常では考えられないほど小さな牧場を作ったり、お客さんと一緒に牧場を始めたり、色々な形で農業に関われるヒントになるかもしれない、と感じました。
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