連載
都内の住宅街で愛されたミルクファーム…でも牛乳販売を終了した理由
簡単にできない「牛乳の値上げ」
全国的に愛された「磯沼ミルクファーム」(東京・八王子)の牛乳の販売が終わってしまう――。ミルクスタンドを運営する筆者は、そんな一報を聞きつけました。牛のストレスを減らしながら、地域住民が牛たちとふれあう機会をつくってきた牧場ですが、委託先が製造を中止することに。都内の住宅地に溶け込むミルクファームの魅力を紹介しながら、穀物価格の上昇や円安などが経営に打撃を与える牛乳生産の現状をお伝えします。(木村充慶)
筆者が都内で開くミルクスタンドでは、毎月、時季に合わせて牛乳を3種類程度セレクトして提供しています。牛乳の違いを感じてほしいからです。
8月までは放牧の牛乳のみでしたが、9月からは放牧以外の牛乳も扱うことにしました。
そのひとつが東京・八王子の磯沼ミルクファームの「みるくの黄金律」です。
一般的な牧場は、牛舎と呼ばれる建物の中で牛の首をつないで飼っています。
他方、放牧では牛を広大な土地に放って自由に過ごさせるため、動物の幸せを考える「アニマルウェルフェア」といった観点でよく注目されます。
ただし、放牧では1頭につき1へクタールの牧草地が必要といいます。北海道など広大な土地がある場所でないと、厳しい側面もあります。
ほかに注目されるのが、牛舎の中で首をつながず一頭ごとに区分けされたスペースで過ごす「フリーストール」、さらに、区分けしていない建物の中を自由に動ける「フリーバーン」という育て方です。
どちらも放牧地を十分に作れない場所でも、牛たちを快適に過ごさせることができます。
磯沼ミルクファームでは、この「フリーバーン」で、大切に育てられた牛たちの牛乳を販売しています。
牛乳の味の違いは、牛の品種・殺菌方法などもありますが、育て方も大きく影響します。
私たちが普段よく飲む牛乳がつくられる牧場は、牛舎の中で、草やとうもろこし・甜菜から砂糖をとるときの搾りかすなどを混ぜた配合飼料を食べさせることが多いです。
通年で一定の育て方をするため、牛乳の味も一年を通してあまり変化しません。
放牧の場合、牛は牧草地に放たれ、主に生えている草を食べます。だから、草の風味が強くでます。
ただし、放牧の牛乳も秋以降は草の印象が落ち着いていきます。
特に北海道では、冬には雪が降るので牛舎に入れることがほとんど。一般的な牛乳に近い印象の味わいになっていきます。
牛乳の移ろいもあり、冬くらいから放牧以外の牛乳も入れようと思っていましたが、その矢先に磯沼ミルクファームの牛乳が9月で販売終了すると聞いたのです。
もともと磯沼ミルクファームでは、牛乳を製造委託していました。その委託元が経営が厳しくなって牛乳製造をやめることになり、販売できなくなるとのことでした。
今後も搾乳してヨーグルトやアイスなどは製造を続けますし、ほかの牧場の牛乳と混ぜてスーパーなどで売られる「東京牛乳」の一部としては使われます。しかし、磯沼ミルクファームがつくった牛乳「みるくの黄金律」はなくなってしまうのです。
都内にあることもあり、普段から牧場にお邪魔したりして仲良くさせてもらっています。
牛乳の販売が終了する前にその魅力を伝えたいと、急きょ9月のラインナップに入れることにしました。
磯沼ミルクファームは、東京・八王子の住宅街のど真ん中にあります。
最寄りの京王・山田駅から徒歩数分という立地。東京の中心部からも1時間かかりません。
「みるくの黄金律」の魅力はなんと言っても、豊かな味。乳質の異なるさまざまな牛の生乳が混ぜられています。
日本の牛の99%以上と言われる白黒柄のホルスタインだけでなく、ジャージー、ブラウンスイスから、特に珍しいガンジーやエアシャー、ミルキングショートホーン6品種の牛を飼っています。
前述した「フリーバーン」の牛舎で、牛たちになるべくストレスをかけずに育てています。
牛たちは歩き回りながら、食事をしたり、くつろいだり、自由気ままに過ごしていることも乳質に影響しているはずです。
磯沼ミルクファームでは地域との循環も大切にしています。
一般的な牧場の場合、近くに行くと特有の匂いがしますが、磯沼ミルクファームでは匂いがしないどころか、いい匂いがします。
その理由はコーヒーカス。近くの工場で出たコーヒーカスを、牛たちの寝床としてひいています。
近年、牧場が減っている理由のひとつは匂いだそうです。
牧場から出る匂いにクレームが入り、地域との関係が悪くなっていくということは少なからず起こる問題です。
牛たちにとって快適な寝床が、匂いの軽減にもつながり、地域住民へのケアにもなっています。
だから都内の住宅街で牧場を運営できているのです。
糞尿と混ざったこの寝床は、堆肥化して、地域のさまざまな農家に提供もしています。
また、地域の工場で出た果物の皮なども牧場に集められ、牛たちの餌となっています。
地域と連携することで、循環が生まれています。
牧場の真ん中には道があり、地域の住民が通勤・通学に使っています。
その道に牛舎が面していて、牛たちがのびのび過ごしている様子を間近で見ることができます。
牛たちにはすべて名前がついており、毎日、名前を呼んで可愛がっている住民の方もいます。
磯沼ミルクファームでは、そんな牛の名前がついたヨーグルトを作っています。
牛単位で搾乳し、そのミルクから製造。ヨーグルトのふたにはリン、ひまわり、アークといった牛の名前が印字されています。
さらに、子ども向けに牧場の仕事を手伝うボランティア「カウボーイ・カウガールスクール」もあります。
子どもたちが牛に名前をつけ、1年間育てる体験ができます。もちろんヨーグルトを食べることも。
命をいただくということが、ここまで日常と結びついた形で体験できることは、そうそうないと思います。
ほかにもチーズづくり教室やバーベキューなど、地域や仲間と様々な取り組みを行ってきました。そういった長年の積み重ねもあって、日本でも有数の地域密着の牧場になっていきました。
そんな風に愛されている磯沼ミルクファームの牛乳さえも販売が中止になるというのは、本当に厳しい状況だと感じています。
現在、ウクライナ危機を発端とする穀物や燃料価格の上昇や、記録的な円安の影響で、牧場の経営はどんどん厳しくなっています。
しかし、牛乳の値上げはそう簡単にはできません。
日常的に飲むもので、安価で買えるため、多少の増額でも消費者にとっては相当なインパクトになります。
値段が安いままなのは、消費者としてはありがたいものの、そもそも市販される牛乳の値段は牧場が一方的に決められません。乳業メーカーや全国の広域指定団体が買い取り価格を決めています。
牧場主たちにとっては厳しい経営状態をさらに圧迫する由々しき問題です。そのような状況を踏まえて、最近では一部の乳業メーカーも値上げに踏み切りました。
うちのミルクスタンドでも、今月に入って複数の牧場主から値上げの相談がきました。私たちも10月から値上げする予定です。
この状況が続けば、今後、牧場単位の牛乳はますます無くなっていく可能性もあります。
9月で委託製造・牛乳販売を中止する磯沼ミルクファームですが、なんとか再び製造したいという気持ちもあるようです。
磯沼ミルクファームの代表・磯沼正徳さんは「いずれ牛乳を復活させなければ、磯沼牧場も大きな柱を失うことになります。小規模な設備、小さな建物で、無理のないかたちで再開する方法を模索したい」と語ります。
しかし、こんな風に牧場の苦境を一方的に伝えるだけでは、なかなか消費者まで伝わらないのが現状だとも感じます。
消費者の賃金が増えないなか、ただ価格が上がってしまう状況もあります。
だからこそ、生産者と消費者の実態や思いが、もう少しつながれる仕組みが必要だと感じます。
現状は組合や乳業メーカーが間に入っていて、なかなか生産側と消費側がつながることができません。
生産者は危機に直面しながらも、牛という生き物に日々向き合っています。消費者も牛乳が生き物から作られているというリアルをもっと体感できたら、一杯の牛乳が生み出されることの価値を感じ、値上げをもう少し前向きに考えられるかもしれません。
他方で、生産者も消費者がどのような意識で買っているか、もっと知ることができるといいと思います。消費者の意識が酪農のスタイルに変化を生み出すかもしれません。
少しでもお互いの意識に触れ合うことが、今、大切な気がします。
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