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28歳でがん診断「結婚、出産できないのかな」ショックで号泣した日
15〜39歳のがん経験者は「AYA世代」と呼ばれます
「5年も前のことなのに、話すと泣けてきます」。2017年を迎えてすぐ、血液のがん「ホジキンリンパ腫」と診断された歯科医師の西尾万樹さん(33)=東京都在住=は振り返ります。
15〜39歳のがん経験者は「AYA(Adolescent&Young Adult=思春期・若い成人)世代」と呼ばれ、治療中または治療後に進学や就職、結婚、出産など様々なライフイベントが訪れます。そのため、上の世代とは違う悩みに直面することもあります。
28歳だった西尾さんも例外ではありません。当時はまだ学生。結婚や妊娠、出産はできるのか、不安が押し寄せました。症状が落ち着き、再発しない状況が続いている今思うことを聞きました。
「おかしいよね、ここにしこりがある。普通ないよね?」
2016年12月、北海道札幌市に住んでいた西尾さんは、歯科医師国家試験へ向け予備校で勉強をしているとき、左鎖骨の上に違和感を感じて一緒にいた友人に確認しました。
大学ではがんについても学んでいたため、「おかしい」と感じ病院で血液検査をすることに。検査の結果、年明けに悪性リンパ腫のひとつで血液のがん「ホジキンリンパ腫」のステージⅡaと分かりました。
医師から診断を伝えられたとき、西尾さんはとっさに「フクロウの眼ですか」と声が出ました。
「ホジキンリンパ腫は『フクロウの眼のような特殊な細胞』と習っていたので、まずは『勉強していたやつだ!』という感想でした」
それくらいどこか他人事(ひとごと)のように思えたそうです。
しかし、今後の治療内容を聞いているうちに、「本当にがんになったんだ……」とじわじわ実感がわき、同席していた母親や医師の前で涙が止まらなくなりました。
「なんで私が? どれだけ遠回りして生きなきゃいけないの?」
西尾さんは歯科医師をめざし、1浪して大学に入学。毎日休まず通っていましたが、勉強につまずき2年留年して、国家試験も1度落ちてしまいました。
「浪人や留年は私の努力不足ですが、がんは自分でどうこうできる問題ではありません。『人生終わった』と思い、父と母に『ごめんなさい』という気持ちがあふれてきました」
2月上旬には、再び国家試験が控えていました。
医師からは「進行が早い病気ではないので、試験を受けてから入院して治療の準備に入りましょう」と説明を受けました。
「今年こそ合格する」と思っていた西尾さんですが、不安を抱えた状況で臨んでもいい結果は出ませんでした。
抗がん剤治療をするなかで西尾さんが気になったのは、結婚や出産などのライフイベントでした。
治療に入る前、主治医から抗がん剤の影響で妊娠が難しくなる可能性について説明を受けました。
当時28歳。「結婚も出産もできないのかな。ひとりで生きていかないといけないのかな」と不安が押し寄せました。
入院中は、婦人科の医師にも抗がん剤の影響による不妊や卵子凍結などについて相談しました。
「卵子凍結は早くても3週間は時間が必要」と医師に聞いた西尾さんは、卵子凍結を選びませんでした。
「抗がん剤治療を乗り越えることを最優先と考えました」と振り返ります。
「当時はパートナーもいませんでしたし、自分の未来が全く見えていませんでした。まだ歯科医師にもなっていません。がんになったことで結婚できないかもしれない。そう考えたら卵子凍結の選択肢はなくなり、まずは元気になることが一番でした」
一方、今後パートナーができたときのことへも思いを巡らせました。
「今後お付き合いする人に、がんになったことを伝えたら負担になるかもしれないと考えました。再発するかもしれませんし」と話します。
「でも、インスタで仲良くなった女性患者の中には、その後お子さんを産んだ人もいて希望になりました」
現在、西尾さんにはパートナーがいます。
「以前は結婚できないかもと思っていましたが、今の彼にはがんのことも、自然妊娠が難しいかもしれないことも全て伝え、結婚を視野にお付き合いしています」
パートナーが子どもを望んでいると知り、「結婚してから言うより付き合ってる段階で伝えた方がいい」と考えました。
「これで別れてしまったらそれまでだ」という思いはありましたが、パートナーはあまり気に留めていないようでした。
後日、改めてパートナーに聞くと、「愛の形は子どもが全てではないと思ってるし、子どもができにくかった場合、もしかしたら俺の影響の可能性もゼロじゃないよね」と話してくれたそうです。
西尾さんが治療中、特に支えとなったのは友達と家族でした。
入院中でも外泊できたときは、大学で所属していたサッカー部のマネージャー仲間や部員が集まり励ましてくれました。
歯医者の友人が多かったため、抗がん剤の副作用で口の中がかゆくなったときには「口腔(こうくう)外科の友人に、『ケアは何をしたらいいの?』と聞きました」。
母親は毎日、「散歩がてら」30〜40分ほど歩いて面会に来て、バスタオルや枕カバー、パジャマなどを交換してくれました。
「母が毎日面会に来てくれたことは忘れられません。いつも楽しみにしていました。仕事の都合で遠くに住んでいた父も、週末には3時間かけて車で会いに来てくれました」
もともと仲のいい家族でしたが、家族みんなががんについて知ろうとしてくれました。
ある日、自宅のリビングで「リンパ腫」について書かれた専門書を見つけた西尾さん。「母か弟が読んで勉強してくれたんだと思います。泣いて、笑っちゃいました」と振り返ります。
父親のかばんからは、「ホジキンリンパ腫」について書かれた大量の資料を見つけました。
家族ががんについて調べていたことを直接話題にしてはいませんが、「病気を理解してくれようとしているんだ」と何とも言えない感情に包まれました。
退院後は、母と弟と暮らしながら2週間に1回通院して、6時間点滴する治療を続けました。
抗がん剤治療を始めて約半年、症状は落ち着き「寛解」しました。
そこから必死に勉強し、翌年の国家試験は合格。泣きながら両親に報告すると、「よかった、本当によかった」と、とても喜んでくれました。
西尾さんは、「つらいとき、『私はお父さんとお母さんの子だから大丈夫』と自分を励ましていました。父は頭がいい人、母はメンタルが強くガッツがある人で、心の底から尊敬しています」。
「すごく迷惑をかけていましたが、やっと親孝行がひとつできました。父も母も安心してくれたと思います」
「がんになってよかったなんて1ミリも思いません。でも、なったから話せることもあります」と西尾さんはいいます。
大学病院の口腔外科での研修医時代、抗がん剤治療をする前に口腔ケアに来る患者がいました。
「研修医だから何もできませんでしたが、患者さんの気持ちが少しでも和らげばと、自分のがんの経験を伝えたり、髪の毛が抜けたとき、生えたときの写真を見せたりしていました。『若いのに?』『そんなに元気なのに!?』と言われたこともあります」
「病気は違っても、告知される怖さや治療が始まる怖さ、口の中に出るトラブルのことは分かります。看護師さんにこう対処してもらうといいですよなどアドバイスができたのは、プラスに考えればよかったことかもしれません」
また、「いつ何が起こるかわからないので、何かにチャレンジしやすくなった」と話します。
北海道の親元を離れ、上京したことも「チャレンジ」のひとつ。現在は「東京表参道矯正歯科」の院長を務めています。
西尾さんは、悩んでいるAYA世代の患者さんへ「がんの種類によって治療は異なりますし、病院によって治療方針が違うので、つらいのは今だけだよとは言えません」と前置きした上で、こう話してくれました。
「つらいときは『つらい』と、正直に言ってください。がんになって、つらくないわけありませんから。無理して『元気だよ』と言うと、それこそストレスになってしまいます」
西尾さん自身も、ブログに弱音を吐き出していました。
「私のブログで、少しでも気持ちが和らいでくれるといいなと思います」
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