お金と仕事
背中押した上原浩治さんの一言 引退後も「楽しい」と思うためには?
元甲子園球児が起業したスポーツマネジメント会社
お金と仕事
元甲子園球児が起業したスポーツマネジメント会社
メジャーリーガーを夢に、野球に力を注いできた澤井芳信さん(41)。甲子園ではチームを準優勝へ導き、プロ選手を目指すも、夢は叶いませんでした。引退後、スポーツマネジメント会社に就職し、独立。そのきっかけは、元メジャーリーガーの上原浩治さんのある「ひとこと」だったといいます。仕事の醍醐味、アスリートと信頼を築くまでの道のり、そして現役アスリートへのエールを聞きました。(ライター・小野ヒデコ)
澤井芳信(さわい・よしのぶ)
2013年、32歳の時にスポーツマネジメント会社のスポーツバックスを立ち上げました。
スポーツマネジメントに興味を持つきっかけとなったのは、高校時代に観たトム・クルーズ主演の『ザ・エージェント』という映画でした。
アメリカを舞台に、アスリートを裏側で支えるエージェントを主人公に描いた作品です。当時、日本ではまだスポーツマネジメントの知名度が低かったんですが、アスリートに寄り添い、感謝される仕事の存在を知り、感銘を受けました。
引退後に就職したスポーツマネジメント会社で6年勤めた頃に退職を決めたのですが 、その時に担当していたメジャーリーガーの上原浩治さんに「独立したら?」と言われたことが、起業したきっかけです。
起業や経営のノウハウはゼロに近かったのですが、上原さんに「ついて行く」と言われたことが後押しになりました。
社名に入れた「バックス」という言葉は、「裏側」という意味です。スポーツは、する人、見る人、支える人がいて成り立つものです。
僕は小学生時代から26歳まで野球を続けました。「する人」から「支える人」になるにあたり、この名前をつけました。
しかし、起業当時の所属選手は、当時ボストン・レッドソックスでプレーをしていたメジャーリーガーの上原浩治さんと、元競泳オリンピアンの萩原智子さんの二人だけ。
スポーツマネジメント会社が得る利益は、所属選手が契約した企業広告や、テレビ出演料などで発生する報酬からのマージンです。当時、上原さんは米国在住だったので日本での仕事は少なく、妻には「本当にあかんかったらアルバイトするわ」と伝えたほど、資金的には綱渡り状態でのスタートでした。
最初は赤字でしたが、上原さんや萩原さんのつながりや、私たちの仕事ぶりが口コミで広がっていって。徐々に所属選手も増えていき、会社として軌道に乗り始めました。おかげさまで、現在は13人の現役・元アスリートが所属しています。
企業なので、利益を追求することは必要ですが、自分の中で明確にしているのは「儲ける」ではなく「稼ぐ」ことです。
『ザ・エージェント』では、主人公のジェリーが所属するエージェント会社がお金儲けに走り、稼げない選手をないがしろにします。そんな会社の方針に反発するジェリーが「選手に寄り添ったマネジメント」を目指して奮闘するのですが、僕も彼と同じ信条を持っています。
マネジメントする選手が多ければ多いほど、利益が上がる可能性も高くなりますが、その分一人ひとりの選手にかける営業力やサポート力も求められます。アスリート本位のマネジメントを第一としているので、“仕事のある人・ない人”の差を作りたくありません。
クライアントの選手を増やすことに重きを置くのではなく、今所属している選手たちをどう売り込んでいくのかを、昔も今も大切にしています。
スポーツマネジメントの仕事は、選手との信頼のうえに成り立ちます。選手の顔色ばかりをうかがうのではなく、「イエス」「ノー」をきちんと伝えたり、「相談しようかな」と思われたりすることが大切です。
そのためには、いっしょにいる時間の長さ、密なコミュニケーションはもちろんですが、選手の知人や、つながりのある企業の人に信頼されることも必要です。第三者から信頼されることが、結果的に、選手からの信頼にもつながるからです。
上原さんのマネジメントを担当したのは、彼が有名になってからです。
プロ野球選手、そしてメジャーリーガーになるまでに経験したであろう山あり谷ありの経緯に、僕たちは携わっていません。
それらの過去を含めて、現在の上原さんの価値を僕らに預けられていることは、生半可なことではありません。本当にすごい責任感がある。
だからこそ、信頼される人間になり、対等に話せるようになり、周りの人たちからも認められる人材じゃないと、ダメなんです。
私たちの会社に所属する選手は皆、能動的な人ばかりで、自分で会社を立ち上げたり、スポーツ大会を開催したりする人も多いです。
引退した選手の働き口というのは、黙っていても向こうからはやってきません。解説の仕事は奪い合いですし、子どもたちに競技を教えたい思いがあってもそれがビジネスになるかどうかは別物です。
よく、アスリートから聞くのは「競技以上に好きなものが見つかる自信がない」という言葉。はっきり言って、それは見つからないと思った方がいいです。
これまで、目標に向かって全力投球できる環境で、心血を注げるものに出会えた方がラッキーだと思います。
僕自身、メジャーリーガーになる夢を追い求めて26歳まで野球をしていました。でも、メジャーリーガーにもプロ野球選手にもなれなかった。スポーツマネジメントの主な仕事はアスリートのサポートなので、「ここ(サポートされる側)に立ちたかったのは自分だ」と思うこともありました。
けれども、今は仕事でメジャーリーグの現場に行けて、メジャーリーガーたちを見られる環境にいます。クライアントの上原浩治さんや、現在シカゴ・カブスのメジャーリーガー鈴木誠也さんのおかげで、立場は違えども、憧れていた球場に立てる自分がいます。
でも僕は、違う意味で世界の舞台に立てている。それはありがたいことだと感じています。
そう思えるのは、好きな野球をやり切ったから。
今、放映されているドラマ『オールドルーキー』で元Jリーガーの新町亮太郎が、サッカー選手だった時の理想の自分と、どのチームからもオファーをもらえなかった現実に直面し、もがく姿が描かれています。
アスリートたちは、どこかで踏ん切りをつけないといけない局面に立たされる時が来ます。自分がしている競技を全力でしてきたかどうかが、次のステップへと進む鍵になるのではと思っています。
競技を全力でやり切るかどうかが大事だと思うようになったのは、大学卒業後に入団した社会人野球チーム「かずさマジック」(現・日本製鉄かずさマジック)での経験が影響しています。
入団当時から、プロになるまでの期限は2年と決めていました。
ですが、1年目の時に既にプロになることは諦めました。実績を残す以前に、試合にすらあまり出られない日が続き、スカウトの可能性は低いと判断したからです。
さらに、2年目ではイップスになり、ボールを投げる感覚がおかしくなってしまって……。もう野球をやめようと思いました。
監督にそう伝えたところ、「お前を取るためにクビになったやつもいる」って言われました。その一言に、「まったくその通りだ」と思い、もう一度頑張ろうと思い直しました。
振り返れば、あのまま逃げるように引退をしていたら、おそらく野球が嫌いになってしまったと思っています。
イップスを治し、試合にも出場できるようになり、「1年間やりきろう」と期限を決めた結果、4年間プレーしました。「やり切った」と思えたことが大きかったと、今になって思います。
今、現役アスリートの皆さんに伝えたいことは二つです。一つは、全力でその競技に打ち込んでほしいこと。今がどれだけ幸せかを噛みしめてプレーしてほしい。
もう一つは、インプットを増やすこと。本でもテレビでも、経験でも、知ることで世界が広がるし、自分の興味がわくものに出会えるかもしれない。そういったものに出会えたらラッキーだし、もしかしたら「引退後も楽しいかも」と思えるかもしれない。
能動的に動き、自ら努力や工夫をすることで、得られるもの。インプットした知識は、やがて知恵へと変化します。自分が映画をきっかけにスポーツマネジメントに興味を持ったように、自分の可能性の幅が広がっていきます。
競技以外に好きになれるものは、向こうからやってくるわけではないことを覚えておいてほしいですね。
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