連載
#85 #となりの外国人
40年前に、難民として来日 ウクライナ避難民へのメッセージ
「君たちには安全が約束されています」
ウクライナからの「避難民」を受け入れ始めた日本。空港に降り立った幼い子の後ろ姿をニュースで見た時、ふと話を聞きたくなった人がいました。約40年前、たった一人、難民として日本にやってきた「少年」、今は東京でタクシー運転手をしている元ボートピープルの「伊東さん」です。あの時、あなたは何を思っていたのですか。今また海を渡ってきた子どもたちに、何を思いますか。
約2年ぶりに、北千住で再会した伊東真喜(まさき)さん(53)。「30代に見えるって友達にも言われます」とおどけつつ、疲労がにじむ表情が気になりました。
聞けば前日10時から、翌朝7時までの乗車勤務明け。それなのに、「ウクライナについて話を聞きたい」との依頼に、「是非、伝えたいことがあるから」と快諾し、駆け付けてくれました。
ロシアがウクライナに侵攻したことに「本当に驚きと、怒り。なぜせっかく平和になった世に……」とこれまでになく語気を強めました。
「ウクライナの戦争は、私が経験した戦争よりもっとひどい。子どもたちはとても傷ついているはず」。伊東さんが思いを馳せたのは、命からがら避難した子どもたちのことでした。
1968年12月、サイゴン(現ホーチミン市)で、伊東さんは、ベトナム戦争のまっただ中に生まれました。7人兄弟の3男。生まれた時の名は「チャン・アン・トン」。父が旧南ベトナム政権側の軍医だったことで、戦時下でも幼い頃は恵まれた教育を受ける余裕もありました。
しかし終戦後、旧南ベトナム政権が崩壊し、家族が追いやられたのは、不発弾が残る土地。畑を耕さなければ空腹で死ぬ――。必死の覚悟で畑を耕し、毎日、まわりで誰かが亡くなりました。「多い日には、近所の一家8人全員が吹き飛ばされたこともありました」
「このままだと子どもたちの未来がない」。伊東さんが11歳の時、両親は子どもたちを亡命船に乗せる決意をします。先に兄2人を乗せた船は、沈没したらしい、そんなうわさを聞いて泣く父の姿を覚えています。
母は別の日、伊東さんを海に連れて行きました。停泊していたのは小さな木造船。母は何も説明せず、泣きながらご飯を渡し、「船に乗って」とだけ言いました。
躊躇しているうちに、岸を離れ始めた船。伊東さんはとっさに海に飛び込み、何とか乗り込みました。たった一人での亡命でした。
「覚悟なんか、出来ません。ただ、行く先には希望がある。それだけは信じていた。『少なくともベトナムとは違う』と」
行き先も分からないまま「17日間、105人で」海を漂いました。途中、海賊に襲われて金品を奪われました。
「人生には正しいことと、正しくないことがある。それを子どもに教えるのは大人の責任。でも『他人に迷惑をかけちゃいけない』、そんな最低限のルールを、大人たちが平気で破っているのを目の前で見てきた。ウクライナの子どもたちもきっと同じ。ものすごく傷ついていることは間違いないんです」
運良くたどり着いたマレーシアの難民キャンプでは、これからの行く先が分からないまま「どこでも使えるから」と英語を勉強しました。
今回、筆者が伊東さんにインタビューしたのは、北千住にあるベトナム料理屋でした。牛肉と野菜のフォーを前に、伊東さんは、ふと「懐かしいにおいがしますね。ベトナムにいた頃は、これを無我夢中でかき込んでいたな」と、40年前の記憶と重ねました。
すかさず、「勘違いしないで、僕はベトナム人じゃないから。いまは普段食べているのは日本料理ばかりですよ」と言います。亡命してから、40年以上経った日本での生活。「日本に骨を埋める」覚悟で、日本国籍も取りました。
ただ、日本に来る当初は「いつかは祖国に帰るんだろう」と漠然と思っていました。
1981年2月4日、大阪空港に降り立った伊東さんは12歳になっていました。着せてもらった冬服があたたかかったことを覚えています。「高層ビルや、新幹線。未来都市に来たのかと思いました」
兵庫県姫路市にある難民定住促進センターで日本語や、生活の仕方を教わり、日本で受け入れてくれる「里親」の元に向かいました。
日本の「親」の顔を見たとき、決心したと言います。「もう、何も振り向かない。日本で新しい人生を歩むんだ」
家族と離ればなれになる寂しさはなかったですか。そう尋ねた筆者に、伊東さんはこう返しました。
「ベトナムで、親と一緒にいたときは、散々な思いをしたわけです。散々、人が死んでいるのを見た。地獄だった。日本に来て、親と離れた悲しみはあったけど、里親が優しくしてくれた。子どもなりに楽しみもあったし、新しい生活にワクワクしていたんです」
あの時、日本の空港に降り立った時の自分と重ねて、日本にたどり着いたウクライナの子どもたちに、伊東さんはこんな「メッセージ」を考えてきていました。
《ウクライナ、特に子どものみなさん、日本へようこそ。
大変なことだったでしょうけども、君たちには安全が約束されています。
たくさん学んで、たくさん遊んで、ちゃんとルールを守って。それは自分の安全のために。
そこに約束されている自由と平和があるから》
「厳しさ」も加えました。
「日本に来たからと言って、パラダイスではございません。日本は最高な国だけども、ただ、君たちが思っている国ではないかもしれない」
たまたま自分が生まれた国で起きてしまった戦争。日常を壊された悔しさ。
「でも、戦争で君たちの人生が終わる訳じゃない。諦められないでしょ。だから、日本が手を差し伸べたことを『チャンス』だと思ってほしい」
それはあの頃の、そして今の自分にも言い聞かせていることでした。
来日直後は、日本語が分からないながらも、負けん気で、テストは丸暗記して乗り切っていました。「できないことは恥ずかしい」という、ベトナムの父の教えが頭にありました。
でも、どうにもならないこともありました。里親との関係に悩んで、家を飛び出したこともあります。
まわりからの言動で心が揺れたこともあります。
食事時、「ベトナムなんか、手で食べてただろう」と言われた時は、怒りとショックで息が荒くなり、胸が苦しくなりました。「どこの国の人でも同じだと思うけど、自分の国のことを悪く言われると、悲しくなるんです。あんな国でも自分は誇りに思っているから」
小5の授業中には、先生がベトナム戦争について話し、何げなく「君は難民だよね」と言われました。あのつらさは、今も忘れられません。「もう、本当に最悪ですよ。子どもは繊細なので、ちょっとしたことで傷ついてしまう」
当時の自分を振り返ると、心の中はいつもぐちゃぐちゃでした。
「自分の現実を見たくなくて、『ベトナム戦争』だとか、『難民』だとか、聞きたくもない。それが事実であっても、『私の人生はそうじゃない。私の親は立派で、ちゃんと育てられていて……』って、心の中で、別の『人生』を作り出しているんです」
そうして自尊心を保っていました。
でも裏腹に、まわりの人たちを見ては「なんでみんな幸せなんだろう。なんで私の人生はこうなんだろう」と悲しくなる。相反する気持ちに引き裂かれそうでした。
「それでも、親も含めてまわりの大人たちが、『かわいいね』『ベトナムから来てすごいね』『よく日本に来たね』と言って、かわいがってくれた。完全に『思い込み』だったとしても、『ああ、自分はすごいんだ』と。その言葉に励まされていました」
「だから、ウクライナの子どもたちにも、『よく来てくれた』『かわいい』と言ってあげてほしい。嫌なことを経験してきた分、それを補えるほど、手を広げて包んであげてほしい」
日本政府は、審査が厳しい「難民」と区別して、ウクライナからの人たちを「避難民」として受け入れています。「避難民」は90日間の短い滞在の後、希望すれば1年間働ける資格が与えられ、戦争が長引けば更新できることになっています。でも、定住を目指す「難民」とは違い、あくまで一時的な対応でもあります。
伊東さんは「日本が避難民を受け入れて下さったことを感謝します」と話す一方で、こう強調しました。「1年、2年……そんな単純な問題じゃございません。少なくとも30年はかかるでしょう」
一時的な「避難」という認識だとしたら、「お互いに取って不幸な結果になる」と危機感を持ちます。
「戦争というものが一度『爆発』してしまったら、たとえ終戦したとしても、問題は何十年も続きます」
「そして、ウクライナの子どもたちにとってはもう、すでに、日本でまったく違う歩みが始まっているんです」
伊東さん自身、40年経った今も、ふとしたときに当時の体験を思い出して、無性に悲しくなる「フラッシュバック」に苦しんでいます。「体の傷よりも、心の傷は治すのに時間がかかる。40年経っても、全然消えない。それは今も『ベトナムに帰りたくない』と思うほどの傷です」
すでに始まっている避難民の日本での人生。この先にはさまざまなステージがあります。「難民」の中には日本での生活が落ち着いて親や兄弟を呼び寄せたいと願う人もいましたが、日本の制度では、家族と日本で暮らす希望は簡単にはかないません。
「日本にも、ウクライナの人にも、良かれ、悪かれ、覚悟をしてもらいたい。じゃないと、互いにがっかりすることになると思います」
「日本はパラダイスではございません」。その言葉に、伊東さんの40年の「人生」が込められていました。
20代の頃は、就職や結婚など、自分が「インドシナ難民」だったことを意識せざるを得ない現実に、挫折を繰り返しました。「日本で必死に追いつこうとしたけど、何度も夢破れたんです」
なんで自分は生きているんだろう――。そう苦しんでいたとき、自分を支えてくれたのが、「伊東米(ヨネ)先生」でした。
ヨネ先生は、難民の日本での生活をサポートしてくれた国際社会事業団のソーシャルワーカーでした。来日当初から伊東さんを支えてくれ、交流は84歳で亡くなる直前まで続きました。日本国籍を取るとき、「伊東」の苗字を選んだのは、ヨネ先生がいたからでした。
20代の絶望の淵にいた時、ヨネ先生は伊東さんをこう説得しました。
「人生は希望する通りになる」
その言葉を支えにして、諦めずに生きてきました。気がつけば、ヨネ先生があの言葉をくれたのと同じ、50代に追いついていました。
「私が日本で生きたからこそ、ウクライナの子どもたちもきっとできる。『人生は希望する通りになる』、今度は私の経験を持って、そう伝えられたらと思います」
「日本はパラダイスではない」。そう言っていた伊東さんに、聞いてみました。「今、幸せですか?」
伊東さんは少し考えて、「意地を張ってでも、『幸せです』と言いたい。負けるもんかってね」と笑いました。
コロナ禍では、タクシーの仕事を通算12カ月も休業せざるを得ず、貯金を切り崩して生活しました。毎週のように、遠くに住む里親とオンラインで顔を合わせています。
大変な時も、うれしい時もある。それが人生。
「日本は真面目に、勤勉で怠らず、普通に社会に溶け込もうと思ってやれば、成功できる国」だと伊東さんは言います。
そんな日本に「ついていけない」難民たちも大勢見てきました。「パラダイス」を求めて、大変な思いをしながら他の国に散って行った人たちもいます。
「自分は日本を選んだし、住めば住むほど、日本を愛しています」
受け入れる側、来る側、それぞれにいろいろな期待を持って出会います。そして、人と人が一緒に暮らす以上、問題もきっと起こります。「それを頭に置いておいてほしいんです。でも、私は悲観していません。人間は、特に子どもは、宝物です。ようこそ日本へ来てくれた、たくさん遊んで、たくさん学んでいいよ、と、そう迎えてあげれば、きっと子どもたちは、うまい具合に考えながら、自分の人生を歩んでいけます」
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