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夫から性感染症をうつされ離婚も言い渡され…彼女は初の女医になった

“日本初の公認女性医師”
そして、4月4日に公開されたイラストが、SNSで話題になりました。描かれたのは荻野吟子(おぎのぎんこ)さん。1851年4月4日(旧暦では嘉永4年3月3日)が生誕日とされ、その“171st Birthday”ということでした。Doodleではその偉業とともに荻野さんが紹介されました。
SNSでは荻野さんについて「知らない人っていっぱいいるなあ」など、初めて知った人からのコメントや、出身地の埼玉では郷土かるたに詠まれていることから、その登場を喜ぶ同県関係者の声が並びました。
荻野さんは“日本初の公認女性医師”とされます。しかし、当時はジェンダー平等が難しかった時代。荻野さんの人生もまた、困難の連続でした。
時代を超える「不屈の精神」
同県が公開する『荻野吟子について』『日本最初の女医 荻野吟子』によれば、荻野さんは18歳で結婚。不慮の病に罹り2年ほどで離婚しました。このとき、婦人科の治療を受けたことで、医師となることを決意したとされます。
約2年間の入院を余儀なくされた際、やや回復し、同じ女性患者を励ますにあたり、「男性の医師に診察される経験に羞恥と屈辱を覚えることに共感し、これが嫌で受診せず、命を落とす女性さえいること」を嘆いたことがきっかけでした。
この“不慮の病”とは、日本大百科全書(小学館)などによれば、当時は治療が困難だった性感染症の淋病※だったとされます。同事典には“最初の結婚で夫から淋病(りんびょう)を移され”とあります。※異説あり。
しかし、当時、女性には医術開業試験の受験が認められていませんでした。荻野さんは何度も受験を拒まれ、制度改正に奔走することに。その際、『令義解(りょうのぎげ)』という古文書に女医の記述があることを訴えたと言われています。
後に陸軍軍医総監や赤十字社長となる石黒忠悳(いしぐろただのり)さんや内務省衛生局長だった長与専斎(ながよせんさい)さんらの理解により、1885年に医術開業試験に合格、日本における最初の女性の公認医師となりました。
なお、受験の許可を求めていたのは荻野さんだけではなく、当時、複数の志望者が、荻野さんのように行動を起こしていたそうです。
その後、東京で開業し、診療活動に加え、婦人解放運動などの社会的活動も担い、女性の地位向上や衛生知識の普及にも大きく貢献したということです。二番目の夫とともに北海道に渡りましたが、夫の死後、東京へ。1913年、62歳で亡くなりました。
その人生は渡辺淳一さんによる伝記小説『花埋み』や、映画『一粒の麦 荻野吟子の生涯』にも描かれてきました。埼玉県の担当者は、荻野さんが再度、注目されていることについて、こう話しました。
「女性活躍、ジェンダー平等が難しかった時代に、女性医師としての道を拓いた不屈の精神は、後世にも伝えられるべきもの。県としても引き続き、男女共同参画を推進していきます」