連載
虐待死に集まる同情、逃れてもあった〝壁〟そして後遺症が始まった
助けてほしかった。
家を出たら、解放されると思っていた。両親から逃げられたら、虐待は終わると思っていた。でも、私のその考えは、砂糖菓子より甘かった。
中卒の未成年がひとりで生きていくには、社会の壁はあまりにも分厚かった。最初の壁は、住居の確保だった。私が家を出た1990年代、大抵の物件は保証人が必要で、礼金・敷金がゼロのところは限りなく少なかった。計画性なく衝動的に家を出た私は、当然の如く途方に暮れていた。
次に、就職の壁にぶつかった。履歴書には「住所欄」がある。でも、私には住所がなかった。住所不定無職、尚且つ、中卒で無資格。「がんばります」しか言えない私を雇ってくれるところは、簡単には見つからなかった。生まれてはじめて自由になれたと思ったのに、そこには自由なんてなくて、あるのは容赦ない現実だった。本来なら、警察や児童相談所に駆け込むべきだったのだろう。でも、私の中にその選択肢はなかった。父に刷り込まれた呪縛が、家を出たあとも私の心をがんじがらめにしていたからだ。
「誰もお前の言うことなんて信じない」
「みんなお前が悪いと言うよ」
この世でもっとも憎むべき相手の言葉なのに、「そんなことない」とは思えなかった。大人と子どもの話が食い違うとき、大抵の人は大人の話を信じる。何より、実の父親との間に起きたあれこれを、誰にも知られたくなかった。
どうしようもなくて、数日、公園の遊具で夜をしのいだ。手持ちの金は、吹けば飛ぶような額だった。なるべくそれを減らさぬために、そのへんに生えている雑草を食べた。田舎育ちで、農家を営む祖父母に「食べられる草」と「毒のある草」を教え込まれていたことが、思わぬ形で役立った。火も通さずに生で貪る草の味は、ただただ苦かった。草の表皮のザラザラが、口内をチクチクと刺す。その痛みが、たまらなく不快だった。
身元特定につながる恐れがあるため詳しい事情は明かせないが、その後、紆余曲折を経て、どうにか住む場所と仕事を確保した。これでもう大丈夫。そう思ったのに、またしても新たな問題が立ちはだかった。後遺症の、始まりだった。
パニック発作、フラッシュバック、希死念慮、それらのストレスによる頭痛や胃痛などの身体症状。あらゆる苦痛に、連日苛まれた。さらに、この頃から記憶の欠如が顕著になった。でも、私はそれを安定剤の副作用だと思っていた。まさか自分が解離性同一性障害を患っているなどとは、思いもよらなかった。
フラッシュバックは、ただ「思い出す」だけではない。あたかも今現在、被害に遭っているかのような錯覚に陥る。感触から臭いに至るまで、鮮明に蘇る記憶。誰もいないアパートの一室で、私はたびたび発狂した。それが原因で、警察を呼ばれたこともある。それ以降は、布団に潜って枕を噛み、声を押し殺した。ぎりぎりと食いしばった奥歯が、嫌な音を立てて軋む。その鈍い痛みを持ってして、残されたわずかばかりの理性を握りしめていた。
一睡もできないまま仕事に行き、ミスを連発し、やがて出勤さえもできなくなった。天井を見上げることしかできず、朝か夜かもわからない日々。食べ物は底をつき、脱水による目眩と動悸を自覚しながら、眠剤をラムネのように貪った。OD(オーバードーズ。安定剤の過剰摂取のこと)をしても、簡単には死ねない。吐瀉物が喉に詰まって死ぬ場合もあるけれど、大抵は生き残ってしまう。それでも、意識を飛ばさずにはいられなかった。いっときでもいいから、思い出さない時間がほしかった。過去を忘れて、ただただ無になれる時間がほしかった。気がついたときには重度のうつ病を患い、精神科の閉鎖病棟に入院となった(このときの入院費用は、当時付き合っていた人に立て替えてもらい、分割で返した。詳細は次回触れることとする)。
家を出て結婚するまでの8年間、閉鎖病棟への入院歴は4回。自殺未遂による救急搬送多数。胃洗浄の苦しみも、牢獄のような保護室の景色も、蔑むような周囲の視線も、すべて覚えている。虐待で子どもが死ぬと、みんな「可哀想だ」と涙を流す。その感覚は、正しい。でも、じゃあ、この頃の私は?もしもあの頃、自殺により命を落としていたら、私の死は「虐待死」として扱われただろうか。答えは、否だ。
過去を断ち切るのは、容易ではない。今年40歳になる私は、未だにその触手を振りほどこうともがいている。過去は過去だと人は言う。それは間違いではないが、正解でもない。目の前に突然現れるビジョン。夢の中で繰り返される行為。幻覚に怯える夜。自分の叫び声で目覚める朝。そういうのを、「過去だから平気」だと思えたならよかった。でも、私にはできそうもない。今でも私は、過去が怖い。
今になって両親を訴えたところで、とうの昔に時効だ。被害者の苦しみが終わらずとも、一定の年数が経過すれば、加害者は無罪放免となる。私の父も母も、法の上では加害者じゃない。どうして。ままならないことが多すぎて、諦めばかりがうまくなる。これはおそらく虐待被害に留まらず、あらゆる犯罪被害者たちが味わう感覚だろう。
あの日、家を飛び出して逃げた決断が本当に正しかったのか、正直、今でもわからない。大学進学まであと1年半。その時間をあの家で堪えていたほうが、学歴においても経済面においても、今の何倍も生きやすかったのは言うまでもない。しかし、あれ以上堪えられなかったのだ、とも思う。いずれにしろ、あの当時の私の望みは、ひとつだけだった。
助けてほしかった。
信頼できる大人に、身体を張って救い出してほしかった。「もう大丈夫だよ」と言ってほしかった。「虐待から逃れた先で待ち受ける現実」を、当事者だけに背負わせないでほしかった。
「助けて」と声を上げられたらよかったんだろう。でも、虐待被害者の大半は、脅しを盾に口を塞がれている。当事者が声を上げるのを待っているだけでは、おそらく救えない。表に出ているものは、あくまでも氷山の一角に過ぎない。虐待被害は、「隠される」。只中であっても、逃げのびたあとであっても。
サバイバルは、今でも続いている。あと何年戦えば終わるのか、私には知る由もない。
逃げたら終わりだと思っていた。でも、違った。逃げたあとから始まる、「後遺症」という名の第2のサバイバル。その過酷さゆえに失ったものの数を、私はもう、覚えていない。
◇
この連載は、両親から虐待を受けた経験のあるライター・碧月はるさんが「虐待の先にある人生」について綴ったコラムです。
次回のテーマは「後遺症が招く生活の破綻、その先で待ち受ける貧困の苦しみ」です。
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