地元
「1987・5」刻印の指輪、被災地の海で見つけた 誰のでしょうか
捜し続ける家族の手がかり
「1987・5」。その次の数字は読めない。指輪の裏の刻印だ。岩手県大槌町の海から見つかった。誰の物だろうか。
東日本大震災から11年を前日にした3月10日、甚大な被害があった岩手県大槌町吉里吉里の小久保海岸で、行方不明者の一斉捜索があった。
海の中を担当するのは海上保安庁のダイバー。
「津波はこの辺で渦を巻いて、防波堤に当たった」という、住民の証言をもとに、その周辺を重点的に潜水捜索した。すると、不明者に直接つながる手がかりかはわからないが、手提げバッグやシャツとともに、小さなポーチが見つかり、中から貴金属や時計が出てきた。
その一つ、女性の物を思われる小さ目の指輪に、この刻印があった。
1987年5月?日
結婚した日だろうか。捜索の指揮を執った、海上保安庁釜石海上保安部の菅野浩幸警備救難課長(53)は「不明者の物かどうかはわからないが、不注意で海中に落としてしまう物ではない」と話す。
海上保安庁では震災後、被災地全域で1307回潜水捜索し、410人の遺体を収容したが、最近は不明者や直接のてがかりの発見はなくなっている。
この日は岩手県内で震災後741回目の海中捜索。特に大槌では、震災の犠牲者の3分の1にあたる400人を超す行方不明者がおり、海中捜索は170回を数える。
菅野さんは岸壁で捜索の様子を見ていた白銀照男さん(72)ら行方不明者の家族に、海中で見つかった貴金属や衣類などを見せた。思い当たる人はいなかった。
「残念ですが」とすまなそうに言う菅野さんに、白銀さんは「ありがとうございました」と深々と頭を下げた。
白銀さんは津波で母、妻、長女の3人が行方不明。「何度も死のうと思ったが、だれか1人でも新居に迎え入れなければ」と思い直して暮らしてきた。
1年前のこの日、釜石市根浜での捜索も立ち会い、翌日、釜石海保に手紙を書いた。「三人が見つかってくれることの願いと祈りの十年でした(中略)何の手懸かりもございませんでしたが、胸の重みが軽くなりました」
そんな白銀さんは「菅野さんは特に私の気持ちをわかってくれている。本当は自分の家族を捜したいだろうに」と同情する。
菅野さんにも行方不明の家族がいるのだ。
菅野さんはあの日、宮城県塩釜市の第二管区海上保安本部から出張で大槌町に来ていた。津波から逃れ、翌日から捜索活動に携わり、仙台市の自宅に着替えに戻ったのは5日後。妻の優子さん(53)から、宮城県東松島市で暮らす優子さんの父紀夫さん(当時66)と祖母恵子(しげこ)さん(同88)が行方不明だと聞かされた。海の目の前の家に住んでいた。「捜して欲しい」という言葉を振り切って、本部に戻った。
まもなく紀夫さんの遺体は陸で見つかったが、恵子さんの行方はわからない。「おそらく引き波で海に流されたのだろう。自分で捜したい」と思った。しかし、震災直後は休みもなく、「組織としても勝手になことはできない」と、捜索は同僚たちに託し、自分は発見された遺体を引き渡すという、割り当てられた業務に専念した。
発見した遺体を警察に引き渡す役割をした後、現場で不明者を捜索する立場になり、3年前からは釜石海保に赴任した。今春は転勤の時期で現場を離れるかもしれない。
菅野さんは「行方不明者の発見は難しくなっているが、少しでもご家族に希望を持ってもらうため、そういうご家族がいることを世間が忘れないように、捜索は続けていかねばならない」と意を強くしている。
ポーチには、指輪以外に、午後4時前で止まっている腕時計や、ネックレスなどが入っていた。最近は、こういった物自体、発見されることはまれだという。他の地区から流れついたとも考えられるが、おそらくこの入り江周辺の人の物ではないだろうか。
そもそも、この指輪などが発見されたことを知るマスコミも一部だし、震災行方不明者や犠牲者の物かどうかはわからないので、広く報道されることはない。ならば、私が知らせるだけ知らせてみよう。そう思って、筆者は自分のフェイスブックに載せ、吉里吉里地区の公民館や寺を訪ね、写真を貼ってもらうことにした。
発見物は、「拾得物」として扱われ、最寄りの釜石警察署に保管されている。
吉里吉里(吉里々々と表記する地区もある)は人口約2500人。震災で119人が震災犠牲になり、その3割近い33人が行方不明のままだ。
もし、住民や犠牲者の中に持ち主がいたら、1987年5月に結婚した女性は、そんなにいないはずだ。もし、あえて海に投げ捨てた物なら余計なおせっかいだろうな、とは思いつつも、私は持ち主がわかることを期待している。
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