連載
父にすり込まれた「お前が悪い」 両親の虐待、40歳で蘇った記憶
染みついた「お前が悪い」
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染みついた「お前が悪い」
赤紫色の浴槽と、カビの生えた壁。窓の外には枯れかけの柏の木。実家の浴室は、清潔感もビジュアルの美しさもないわりに広さだけはある、なんともちぐはぐな空間だった。父の性器をはじめて触ったこの場所を、家を出るまでの17年間、私は忌み嫌い続けてきた。
それがはじまったのは、私が5歳の頃だった。しかし、私は記憶の一部を長らく失っており、すべてを思い出したのは40歳手前の暑い夏の日だった。生ぬるい体液の感触を思い出した瞬間、私は文字通り発狂した。
3人兄弟の末っ子で、なぜか私だけがターゲットに選ばれた。虐待のカテゴリ―において、それはさほど珍しい話ではないらしい。スケープゴートをひとり置き、家庭内のストレスをすべてそこに向ける。そういったケースの虐待事例を、本やニュースでたびたび見聞きした。
虐待の記憶は、まだら模様に似ている。濃い記憶もあれば、薄い記憶もある。そしてその濃淡は、日によって変化する。2020年の夏、解離性同一性障害と診断された。そのときようやく、自身の記憶が不定期で欠如する理由を知った。
父だけでなく母からも、日常的な虐待を受けていた。定規や布団叩きで身体を打たれるほか、言葉の暴力もあった。
「子どもは二人で終わりにするはずだった。予定外にあんたができちゃったから、仕方なく産んだのよ。本当は要らなかったのに」
「要らなかった」という台詞は、鋭い痛みを私にもたらした。しいて言えば、竹製の定規で10回打たれるのと同じくらいの痛みだった。テストは100点以外認められず、95点でも頬をぶたれた。「なぜあと5点が取れないんだ」と怒鳴り続ける母の顔は、化粧が崩れて粉を吹き、真っ赤な口紅だけが歪に浮いていた。
母は、いつもイライラしていた。そんな彼女の表情を読み、次の一手を見誤らないよう努める。それが子ども時代における、私の最優先事項だった。母が常に苛立ちを内包していた理由を、当時の私は知る由もなかった。しかし、大人になり記憶の断片を取り戻した途端、その理由に行き着いた。いっそ永遠に忘れていられたら良かったのに。そう思ってみたところで、一度蘇った記憶は、二度と消えてはくれない。ドアの隙間から覗き込む視線。汚いものを見るような目つき。父が夜中に部屋を訪れた翌朝、決まって割られる食器。父が私に何をしていたか、母は知っていた。知っていたのに、助けてくれなかった。そのことが、父のした行為以上に、私の内面を踏み荒らした。
知りたくもない痛みだけが体内に蓄積されていく。その過程で少しずつ壊れていった私は、何度か自殺を試みた。でも、結局死にきれなかった。「要らなかった」のなら産まないでほしかった。そう思うのと同じ強さで、「愛されたい」と願っていた。
父も母も、24時間365日にわたり、私を虐げていたわけではない。むしろ彼らは、外面は大変に良かった。学校行事や市の催しに積極的に参加し、教師や地域の民生委員たちと交流を深め、外堀を完璧に埋めていた。お祭りなどの催しの日は、驚くほどやさしかった。その延長で、穏やかな日々が数日続く場合もあった。そういうときほど、私の心は怯え、縮こまった。平穏は、長くは続かない。そして、大抵の場合、揺り戻しで大きな反動がくる。次に彼らのスイッチが入るのはいつか。時限爆弾を抱えているかのような恐怖は、直接的な痛みとは違った形で私の心を苛んだ。
中学、高校と年齢が上がるにつれ、身体に対する暴力は減った。私の身長が伸び、母の背を追い越したことも要因のひとつだろう。しかし、父からの性的虐待と母からの心理的虐待は続き、私の精神は常に不安定だった。学校ではたびたび過換気症候群(過呼吸)の発作を起こし、同時期にセルフハーム、いわゆる自傷行為もはじまっていた。
行為に及ぶたび、父は私に言った。
「お前が悪いんだ。お前がこうさせたんだ」
長年すりこまれた台詞は、今でも私のなかにしつこく染みついている。当時はさらにその傾向が強く、何か良くないことが起こるたびに「自分のせいだ」と思い込むようになっていた。兄と姉が愛されているのを目にするのが、何よりも苦しかった。どうして、私だけ。そう思っては、母の言葉を思い出していた。
「要らなかった」のに生まれてきてしまった。生まれたことそのものが、罪だった。その考えに行き着くたび、左腕の傷は増えた。
私の地元は田舎で、自宅から通える範囲に大学がない。よって、大学に合格さえすれば、家から出られる。外的評価が何よりも重要な両親にとって、偏差値の高い国立大学への入学はマストだった。あと少しの辛抱だ。そう自分に言い聞かせていた高校2年の夏、唐突に糸が切れた。
突然、一切の食べ物を受け付けなくなったのだ。身体が、生きることを全力で拒否していた。短期間で10キロほど体重が落ち、歩くだけで息切れを起こし、常に目眩がした。当然、成績は下がり、ついには学校に行けなくなった。そんな私に、両親は激昂した。しかし、どんなに痛めつけても私が食べ物を受けつけない様を見てとると、今度は泣き落としにかかった。
「どうしてここまできて、こんな反抗の仕方をするの。成績が下がるだけじゃなく、内申点も下がるのよ。わかってるの?」
そう言って、母は泣いた。食事がとれない娘の身体ではなく、成績と内申点の心配をして泣く母を見て、私はようやく悟った。この人に愛される未来は、永遠に訪れない。私がどんなにがんばっても、どんなに心を砕いても、この人は私を愛さない。私のなかに残る「愛されたい」という切実な欲に、吐き気がした。
そしてそれ以上に、両親を殺したいと思った。その衝動はすさまじく、長く抑えつけておくのは不可能に思われた。自身の衝動に恐れをなした私は、母親の財布から有り金を抜き取り、貯め続けたお年玉と最小限の荷物を抱え、家を出た。17歳だった。
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この連載は、両親から虐待を受けた経験のあるエッセイスト・碧月はるさんが「虐待の先にある人生」について綴ったコラムです。
次回のテーマは「逃げた先で待ち受けていた現実」です。
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