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「ひと吸いでアウト」元消防官の記者が伝える、火災で一番恐ろしい敵
恐怖に声を張り上げた忘れられない現場
大阪市北区の雑居ビルで2021年12月17日、25人(容疑者を除く)が犠牲になった放火殺人事件が起きました。この火災では、事件そのものの特異性とともに、火災における一酸化炭素中毒の怖さを世間に知らしめることになりました。消防官の間では「ひと吸いでアウト」とも言われる煙。元消防官の筆者が消防官時代の経験をもとに、煙の恐ろしさを伝えます。(元消防官の朝日新聞記者・仲程雄平)
私は、高校卒業後、2002年に東京消防庁に入庁し、2010年春まで東京都北区の滝野川消防署で勤務。ポンプ隊員、はしご隊員、救急隊員、指揮隊員を経験しました。その間に夜間大学で学び、2011年春に朝日新聞社に入社しました。
煙の怖さを一番知っているのは現場の消防官だと思っています。
木造住宅火災やフラッシュオーバー(急激な燃焼現象)などを除くと、火災で怖いのは炎ではなく、煙なんです。
火災の「本丸」は火元です。火元に放水すれば、火災を抑えることができます。
現場では「火点(かてん/火元)をたたく」と言いますが、延焼拡大してしまった時を除けば、消防官がまず狙うのは火元です。
それを阻もうとするのが煙です。
煙は火元を隠します。まるで「本丸」を守る先兵みたいなもんです。
現場では、煙に体を包まれることを「煙に巻かれる」と言います。
視界を完全に奪われるわけですから、それは恐ろしい状況です。
まさしく暗中模索。訓練を受けた消防官ですら混乱に陥る危険性があります。
そんな場面になりやすいのが、今回の火災のような、耐火建物火災というわけです。
耐火建物とは、繁華街にあるビルのような、延焼などを防ぐために耐火性能が高い資材や設備を使った建物になります。
一般的な住居である木造住宅であれば、煙は、屋根が抜け落ちるなどして排出されますからそう問題にはなりませんが、耐火建物は抜けにくい構造になっていますから充満しやすいのです。
そしてなにより、耐火建物は気密性が高い構造になっていますから、火災が不完全燃焼になりやすいんです。
これが怖い。
火災で発生する煙には、二酸化炭素(CO2)や一酸化炭素(CO)など多くの有害物質が含まれています。
火災は周囲の酸素(O2)を吸って成長しますから、気密性が高い耐火建物内では酸素の供給が追いつかず、不完全燃焼になりやすくなります。
つまり、一酸化炭素が多く出るということです。
火災現場において、その「しるし」になるのが、もうもうと上がる黒煙です。
黒煙は火災が不完全燃焼になっているときに上がる煙とされています。
それは、火災が周囲の酸素を吸って大きくなろうとしている「成長期」とも言えます。
消防隊が火災現場に向かっている途上、その黒煙を確認したら「黒煙を確認」と、無線で各隊に知らせます。
黒煙を現認した消防隊や、その無線を聞いた消防隊はこう察するわけです。
〝この現場、燃えてるぞ〟
そして現場に到着した消防隊は、消火とともに、煙をどう排出するかに重点を置いて消防活動を展開するというわけです。
大阪市消防局によると、今回の火災では、4階のクリニックが25平方メートル焼けました。
焼損面積から見れば大きな火災とは言えませんが、耐火建物火災は煙の要素が加わりますから、焼損面積の大小にかかわらず危険性が高いというわけです。
消防官にとって、初めての延焼火災は特別なもので、生涯忘れられない経験になります。
「百聞は一見にしかず」と言うように、1度の延焼火災経験は100回の訓練に勝ります。
延焼火災を経験してこそ、消防官としての「本当の一歩」を踏み出せる、と言っても過言ではありません。
私にとってのそれが耐火建物火災でした。
私が配属された滝野川消防署は火災件数が少ない消防署で、初めて延焼火災を経験したのは、配属から1年ぐらい経った頃だったと記憶しています。
未明の出場指令でした。
仮眠していたところを起こされ、ポンプ車に乗り込み現場に向かいました。
ビルからは煙が出ていました。
「面体」(めんたい/防護マスク)を着装するなど進入準備を整えて、内部に進みました。
そしてさっそく煙に巻かれ、視界を奪われました。
真っ暗かというとそういうわけではありません。
煙が視界を覆っている、という表現がぴったりかもしれません。
自分を落ち着けようと、目の前に手を近づけましたが見えません。
放水と、煙がうなり声を上げているような、ゴオオオオという音が耳を支配しました。
私の延焼火災経験は少ないですが、恐怖を覚えたのはこのときだけです。
訓練では、「誰かいるかあ! 誰かいるかあ!」と呼びかけながら要救助者の検索活動をするんですが、このときも「誰かいるかあ! 誰かいるかあ!」と呼びかけていました。
要救助者を見つけるぞというよりは、黙って検索活動をしていたら恐怖で自分がどうにかなってしまいそうだ、という思いだったと記憶しています。
幸い要救助者はおらず、火災が鎮火した頃には外は明るくなっていました。
煙がすっかり抜けた建物に入って、拍子抜けしました。
恐怖に駆られた私が「誰かいるかあ! 誰かいるかあ!」と呼びかけていた場所は、なんてことない小さな部屋だったんです。
焼損面積は10平方メートル程度だったと記憶しています。
「延焼火災を経験した」と胸を張って言えるのは、感覚的に、焼損面積50平方メートル以上が多いですから、10平方メートルは小さな火災と言えます。
消防官としてそんな現場で怖い思いをしたなんて、当時は恥ずかしくて言えませんでしたが、身をもって煙の怖さを知った火災になりました。
訓練を重ね、防火衣や空気呼吸器などを装備した消防官ですらそうなんですから、生身の人間はひとたまりもないのは言うまでもありません。
煙には様々な有害物質が含まれていますから、煙の中では息を吸えませんし、目も開けてはいられません。
煙の怖さを知らしめた耐火建物火災は過去にも数多く発生しています。
2019年7月に起きた京都アニメーションの放火殺人事件(36人死亡)、2001年9月に起きた東京・歌舞伎町の雑居ビル火災(44人死亡)などです。
これらの火災では、多くの人が一酸化炭素中毒で亡くなりました。
一酸化炭素は酸素よりもヘモグロビンに結びつきやすいため、ちょっと吸っただけで意識消失する恐れがあります。
消防学校の教科書には〝(空気中の)一酸化炭素濃度が0.3%の場合は30分で、0.5%の場合には数分で死に至る〟と書かれています。
これでわかるように、空気中に占める一酸化炭素濃度が低くても、死に至る危険性が高いというわけです。
一酸化炭素中毒の恐ろしさについて、京都府内の救急救命士はこう言います。
「一酸化炭素の濃度が高かったら、ひと吸いでアウト。助け出して救護したとしても、(命を救うのは)難しい」
火災の本当の敵は煙なのです。
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