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「悪魔崇拝者たちから子どもを守れ」コロナ陰謀論を生んだのは誰だ?
「全方位型自己責任の社会」の影
コロナワクチン接種の義務化に異議を唱える反ワクチン運動が欧米を中心に盛り上がっています。今年に入ってから日本でも子どもへの接種が本格化するタイミングということも手伝って、東京、大阪などの都市部をはじめ全国で反ワクチン、ノーマスクを求めるデモが活発化しています。以前と比べて陰謀論的な色彩が濃くなっているのが特徴のこれらの動きの背景には何があるのか。評論家で著述家の真鍋厚さんがコロナ前から進んでいた「全方位型自己責任の社会」という視点から解き明かします。
反ワクチン運動に詳しい関係者によると、厚生労働省で5〜11歳の子ども向けのワクチン接種が議論され、努力義務とすべきかが検討されるようになって以降、母親などの参加者がかなり増えたそうです。
背景として考えられるのは、子どもへの接種自体が論争の種になっていることと、同調圧力に対するバックラッシュ(揺り戻し)があります。
まず、子どもへの接種について。これは、世界的にも専門家の間で意見が分かれているという点があります。アメリカやカナダなどでは接種推奨ですが、ドイツやフランスでは重症化リスクのある子どもなどへの接種推奨と温度差があります。これは感染状況や子どもの重症化の割合などのデータが考慮されています。そのため、日本でも専門家によって意見が違う場面が生まれています。リスク&ベネフィットを考えた場合にそもそも重症化リスクの低い健康な子どもに副反応を伴う接種を行うのが妥当かどうかという論点です。
もう一つは同調圧力です。部活動や運動会、修学旅行などの行事で接種済みであることが参加条件とされ、事実上の接種の強制になっているのではないかという声です。予防接種法第9条には「対象者は接種を受けるよう努めなければならない」とあり、努力義務と呼ばれていますが、法的な強制力はまったくありません。12歳未満に関してはそれすら盛り込まれませんでした。しかし、世間の目や周囲の空気を意識せざるを得ない事情もあり、不安や不満が蓄積しやすくなっていると見られます。
見逃せないのは、ここ数十年で進んだ自己責任化の風潮です。「ケガと弁当は自分持ち」ならぬ「失敗と能力は自分持ち」という過酷な社会状況は、政治不信と経済格差の不公平感を増大させ、わたしたちに被害者意識と犯人捜しへの誘惑を植え付けました。コロナ禍によってこの傾向に拍車がかかり、今や剥き出しの個人があるばかりです。筆者はこれを「全方位型自己責任の社会」と呼んでいます。
つまり、コロナに感染して重症化したり後遺症で苦しんだりするのも自己責任であれば、それによって隔離されて収入が途絶えたりメンタルを病むのも自己責任であり、また一方で、自粛生活のために健康状態が悪化するのも自己責任であり、ワクチン接種による副反応で体調を崩したり、仕事を休んだりせざるを得なくなるのも自己責任であるといった殺伐とした生存主義が横行する世界です。
以上のような自己責任が過剰に内面化されれば、政府や自治体の施策を疑いメディアの情報からも距離ができ、リスク&ベネフィットのリスクにばかり目が行くのは自然なことかもしれません。
ワクチンによる重度の副反応が稀と公的機関から説明されても、玉石混交のインフォデミック(真偽不明な情報の大量拡散)によって、世界が常に人々を奈落の底に突き落とそうと付け狙うホラーハウスに見え始め、特定の勢力による組織的な策略であるかのように感じるようになるのです。
人々に不自由を強いるコロナ禍が秘密結社の仕掛けた茶番劇に過ぎず、ワクチンが毒物であると割り切ってしまえば、理屈の上では全方位型自己責任を回避することが可能になるとともに、積もり積もった不安と不満の根源となっている主犯が明確になるからです。ここで大きな飛躍が起こります。
反ワクチンを掲げる主な団体の一つは、「日本のQ」であると主張しています。Qアノン(影の政府が世界を支配するというアメリカ発の極右陰謀論)から一文字拝借し、日本仕様にアレンジしたものと思われます。「サタニスト(悪魔崇拝者)たちから子どもを守れ」「コロナワクチンで子どもの健康が破壊され、日本人が絶滅するかもしれない」などという言説を見るに、そこには影の政府、秘密結社を拒絶すべき絶対悪の象徴として見立てていることが分かります。
怒りと恐怖という強力な情動を媒介したコミュニティーは、架空の敵という終わらない戦いを作り出す永久機関のような物語によって、同じ世界観にハマる連帯感を醸成し独特の快楽と癒やしをもたらします。
もはや真実vs虚偽という対立は何の意味もありません。
陰謀論研究家のロブ・ブラザートンは、陰謀論的な思考の効用について、現実というグレーを白と黒で塗り分けることによって、自己を正当化できる最強の生贄(いけにえ)が得られると指摘しています。
ブラザートンは、陰謀論的な思考は日常にありふれており、わたしたちは、脳のバイアスやショートカット、ちょっとした疑いや予断などから無縁ではいられないと述べています。
自己の感覚のみを絶対視しがちになる傾向はその最たるものといえます。
例えば、コロナの症状は、人によってその現れ方があまりにも異なるため、キマイラ(頭はライオン、胴は山羊、尾はヘビという姿をした架空の怪物)的です。最近流行りの表現を用いれば、かかってみるまで何が起こるか分からない「症状ガチャ」といえます。これがただでさえ困難な公衆衛生対策をさらに難しくしています。
ある人は軽い風邪の症状で済む一方で、ある人は深刻な後遺症に悩む多面性は、他者への配慮をかえって鈍化させるからです。これはワクチンの副反応についても当てはまります。何も副反応がなかった人にとっては、重い副反応によって体調崩した事例は、別世界の出来事のように思えます。
すでに個人化してバラバラになっていた人々は、コロナ禍でその姿勢をより強固にしました。ありとあらゆるリスクが個人化され、いつ当たるも知れない流れ弾に脅える暮らしが常態化します。その結果、社会全体のリスクよりも、自らに襲い来るリスクを重視する傾向を生みだしてしまうのです。
公衆衛生の前提となる公衆は、公共的なものへの関心を持ち、守るべき規範を共有しているとされますが、そのような公衆はもはや存在しないのかもしれません。心理学者の中谷内一也をはじめとする同志社大学の研究グループは、「マスク着用は、他の着用者を見てそれに同調しようとする傾向と強く結びついており、本来の目的であるはずの、自分や他者への感染防止の思いとは、ごく弱い関連しかない」ことを明らかにしました。
同調圧力によって辛うじて保たれている秩序の水面下では、すべてのリスクを自己責任で引き受けなければならない困惑と寄る辺なさがあり、疑心暗鬼に陥りやすい個々の直観と情動のみがますます唯一の判断基準となります。ウイルスがわたしたちの努力や知恵などお構いなしに身体に巣食うのと同様、個人化されたリスクはわたしたちの意志などと関係なく生活に侵入します。
陰謀論者とされる人たちは、ワクチンを生物兵器とみなして接種もマスクも拒否します。一方で、ワクチン未接種者に対し様々な制限を加える動きが暴走すると人権侵害になりかねません。この二つは、全く逆の動きのように見えて、実は表裏一体であることを忘れてはいけません。
どちらも、実のところ世界からグラデーションを取り除き、これらの混乱を招いた容疑者を確定しようとする、個人化されたリスクという恐怖に促された妄動の裏と表なのです。
疫学者のアブドゥル・エルサイードは、「おそらくパンデミックは我々の見てきた不条理の基質ではなく、むしろ触媒だった」と述べ、「すでに起きていた現象を加速させただけに過ぎなかったのではないか」と問い掛けました(カナダのトラック運転手による抗議は「コロナ不条理」の最新事例/2022年2月13日/CNN)。
まさしくわたしたちは、ここ数十年にわたって孤立無援であることと、空気を読まなければ排除されかねないことの間で引き裂かれてきたわけですが、これらの不愉快な時代状況をより苛烈な形で経験しているともいえるのです。
これまで重々承知していたものの薄ぼんやりとしていた現実が、コロナ禍という自動筆記による悪趣味な風刺画として露呈しただけなのかもしれません。
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