連載
#44 Busy Brain
念がこもったメニューが怖い〝手料理恐怖症〟小島慶子さんが望む食卓
「おふくろの味」幻想との距離の取り方
40歳を過ぎてから軽度のADHD(注意欠如・多動症)と診断された小島慶子さん。自らを「不快なものに対する耐性が極めて低い」「物音に敏感で人一倍気が散りやすい」「なんて我の強い脳みそ!」ととらえる小島さんが綴る、半生の脳内実況です!
今回は、小島慶子さんが自分を〝手料理恐怖症〟と語る、その理由について綴ります。
(これは個人的な経験を主観的に綴ったもので、全てのADHDの人がこのように物事を感じているわけではありません。人それぞれ困りごとや感じ方は異なります)
料理を作るのは好きですか? 私は料理という行為自体は実験っぽくて面白いと思いますが、“家庭料理”は苦手です。
かつては家族のために料理をしていました。でもどう頑張っても「20分でパパッと夕食完成!」なんてできず、2時間かかることもしょっちゅう。作り置きも全くやる気が出ない。私が料理の途中でとっ散らかってしまうのは、マルチタスクが苦手なADHDの特性も影響しているのかもしれませんが、どうも他にも理由がありそうです。
もちろん、ADHDで料理が得意な人もたくさんいるでしょう。というわけで、あくまでもこれは「ある料理嫌いの話」としてお読みくださいね。
夫と二人だった時は、平日は外食で、休日は気分転換のつもりで料理を楽しんでいました。二人で日本酒やワインを開けたりして。でも、子どもができてからの料理は、そんなのんびりしたものではなくなりました。
保育園から連れ帰って、一刻も早く風呂に入れて寝かしつけねばならない。秒刻みの戦場での料理です。しかも息子たちは最新エコカー並みに燃費が良く、牛乳ばっかり飲んですぐに満腹になり、食事はセキセイインコほどしか食べませんでした(それなのに元気いっぱいで、光合成でもしているのかと不思議でなりませんでした)。
子どもが幼かった頃は「ちゃんと作って、たくさん食べさせなくては」と思い詰めていたので、食事の時間はとてもつらいものでした。毎晩鬼の形相(ぎょうそう)で食事を作り、食卓では子どもたちに食べなさいと言うばかり。早く寝かせなくてはと焦って、大声を出したことも数知れず……。初めての育児でしんどさが限界に達した時には「私、もう夜ご飯作るの無理!」と食事作りのボイコット宣言をしたこともありました。幸い、夫は性別役割分業の意識がなく基本的な料理ができる人なので「じゃ僕が作るね」とその間の夕食作りを引き受けてくれました。それからは二人でなんとか回す態勢に。
しかし37歳で会社を辞めて独立した私は激務となり、やがて出稼ぎ大黒柱母さんとなってオーストラリアに家庭の拠点を移したのを機に、家族のための料理作りを事実上引退。今は、東京で一人で働いている時に、必要最低限の自炊をするぐらいです。
料理は、時間と手間をかけた割にはあっという間に消費されてしまうため、あまりやりがいを感じません。相手が喜んでくれるのは嬉しくないのかと言われれば、嬉しくないことはないけれど、何かを食べさせるのは相手の命をこちらが握っているようなもので、なんだかコントロールしているみたいで対等な感じがしないのが好きではありません。
加えて愛情とか喜ばせたいとかいう思いを被(かぶ)せるのは鬱陶(うっとう)しいよなー、だったらみんなでお店に行って、美味(おい)しいねーありがたいねーと言いながら食べる方がよほど楽しいよね、というのが正直な気持ちです。
でも、夫が作る食事は気が楽です。彼は料理を単なる家事としてこなしているため、「愛情たっぷりサラダだよ!」とか「パパ特製シチューだよ」とか言いません。だから安心して食べられます。
私はいわば手料理恐怖症で、念のこもった手料理がとても苦手なのです。結婚したばかりの知人が「旦那の胃袋を握れば安泰よ」と話していたのも、恐ろしかったなあ。
東京での自炊は、夏はサラダと豚の冷しゃぶ、冬は鱈(たら)鍋か鶏鍋。甘いものは和菓子かチョコレート。永遠にこの繰り返しです。果物は、手で剥(む)けるものしか買いません。全ての果物がバナナ型もしくはみかん型であればいいのにと思います。
食事を忘れがちで、一日一食のことも多く、仕事が立て込んでいる時は、0食のことも。そんな時はスモークチーズで命をつなぎます。内科の先生には「血糖値スパイク(食後、短時間のうちに血糖値が急激に乱高下する状態)が起きるといけないから、少しずつでもいいので3食食べてください」と言われました。
以後、なんとか2食は食べるようになりましたが、食事に関しては、セルフネグレクトぎみのところがあります。お前の食事なんか気にしてやる必要ねえよ、という自分に対する復讐(ふくしゅう)のような感情が根っこにあって、まだ詳しく解明できていませんがなかなか興味深いです。
家族にご飯を作っていた頃は、いくつか得意なメニューがありました。美味しいか不味(まず)いかといえば割と美味しい方でした。でも今となってはすっかり忘却。そもそもレシピを見るのがめんどくさい。何が小さじ何杯とか何グラムとか、文字を見ただけで脳がラップにくるまったみたいになって、何も入って来なくなります。
店頭で見て美味しそうだなーと思った食材は、野菜なら生か茹(ゆ)でるか炒めるか鍋にする、魚なら刺身か鍋にする、肉なら炒めるか鍋にする。味付けはサラダなら中華ドレッシング、またはオリーブオイルと塩。炒め物なら塩か醤油(しょうゆ)かナンプラーか豆板醤(トウバンジャン)。鍋ならポン酢とかんずりまたは柚子胡椒(ゆずこしょう)または七味。
これなら何一つ正確に量をはかる必要がなく、加熱しすぎさえしなければ失敗もしません。鍋物は料理界最高の発明ではないかと思います。
世の中にはいろんな理由で、料理が苦手な人や好きではない人がいます。健康のためには栄養の知識と基礎的な調理法を知っておいた方がいいけど、つらいなら無理して料理しなくてもいいのではと思います。
忙しい時は出前をとってもいいし、冷凍食品を活用してもいいし、惣菜(そうざい)だって頼りになります。納豆ご飯や卵かけご飯にも、何度救われたことか。
「手抜き料理じゃ子どもがかわいそう」「丁寧な暮らしこそ豊か」と言うひともいるけど、私は気にしません。子どもは「ねえ、毎日手の込んだものを作ってよ。愛されている気がしないよ」なんて言いません。栄養のバランスさえ取れていれば、くつろいで楽しくご飯を食べられることが何よりです。
食卓がギスギスしていたり、叱られてばかりでは、どれほど手の込んだ料理でも幸せではないでしょう。夫の料理のおかげで、私たち家族の食卓は穏やかになりました。本当に感謝しています。そして息子たちが「おふくろの味」幻想を持たずに育ったことは、彼ら自身のためにも、また彼らと生活を共にする人のためにも、良かったと思っています。
(文・小島慶子)
小島慶子(こじま・けいこ)
エッセイスト。1972年、オーストラリア・パース生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『曼荼羅家族 「もしかしてVERY失格! ?」完結編』(光文社)。共著『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房)が発売中。
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