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師匠・志村けんは言った「裏方の仕事を覚えろ」元付き人の思い出

コンビ解散を報告しに行った時、返ってきた言葉

志村さんの弟子の一人が山崎まさやさん=栃久保誠撮影
志村さんの弟子の一人が山崎まさやさん=栃久保誠撮影

目次

志村けんさん(享年70)が亡くなってから約2年。昨年末の『志村けんとドリフの大爆笑物語』(フジテレビ系)も話題となり、その人気は衰えるところを知らない。そんな志村さんの弟子の一人が山崎まさやさん(52)だ。初めての対面で感じたオーラ。舞台裏で見守ってくれた突然の前説デビュー。そして、どんな時も「頑張るしかない」と励ましてくれた潔さ。大スターの知られざる素顔について聞きました。(ライター・鈴木旭)

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山崎まさや
1970年1月18日、横浜市生まれ。お笑い芸人、タレント。1992年にお笑いコンビ「ジョーダンズ」を結成。『ボキャブラ天国』(フジテレビ系)などで人気を博すも、2007年2月に解散。現在、J:COMチャンネル「デイリーニュース」でキャスターを務めるほか、横浜市内で「山下公園花火大会」「横浜銀蝿」「DeNAベイスターズ」関連の各種イベントの司会などでも活躍。2022年2月よりサーブプロモーション所属。
 

こうして志村けんの付き人になった

――高校卒業後、コメディアン養成所「笑塾」(しょうじゅく)に入られていますよね。

僕らが小学生の頃は、『8時だョ!全員集合』(TBS系)の全盛期。学校で真似したりしてみんなが笑うのに快感を覚えて、漠然とお笑いタレントになりたいと思ってました。ただ、その一方で『太陽にほえろ!』(日本テレビ系)の(竜雷太さんが演じる)ゴリさんにあこがれて、刑事になろうとも考えてたんです。

どうしようかなと思ってた高校の卒業間近に、父親から東八郎さんが主宰する笑塾のオーディションの話を持ち掛けられまして。後悔するのは嫌だったから、確率の低いほうに挑戦してダメだったらすっぱりあきらめて国家権力になろうと(笑)。それでオーディションを受けたら合格したんですよね。

笑塾は、コント、演技、音楽、日本舞踊、殺陣とか、ひと通りの授業がありました。


――そこから、どんな経緯で志村けんさんの付き人になったんですか?

笑塾の3期生として通い始めたある日、東さんが病気でお亡くなりになってしまって(1988年7月6日、享年52)。その中、師匠(志村けんさん)が「塾生の一人か二人だったら預かってもいい」と手を挙げてくださったようなんです。コメディアンとして尊敬していた東さんへの配慮だったんだと思います。

塾生は20人ぐらいいたんですけど、東さんの事務所の社長がなぜか僕を志村さんの付き人に選んでくれたんですよね。後々聞いたら、「まだまっさらな状態だし、明るいしポジティブだから」という理由だったらしいんですけども。東さんがお亡くなりになって1~2カ月後には付き人生活がスタートしました。ちなみに同期の東MAX(東貴博さん)は萩本欽一さん、もう一人が小松政夫さんのところに行きました。

東八郎さん(当時49)=1985年7月20日
東八郎さん(当時49)=1985年7月20日 出典: 朝日新聞

人生で初めてオーラというものを見た

――初めて志村さんとお会いしたのはフジテレビの会議室だったそうですね。

ものすごく暑い日だったから、8月下旬か9月頭だったと思います。当時、志村さんは芸能界の長者番付1位で複数のレギュラーを持つスーパースター。緊張もあったんですけど、「ちっちゃい頃から見てた人に会える」っていう、まだどこかミーハーな気持ちが8割ぐらいでした。当日、出会う瞬間までは。

その日は『志村けんのだいじょうぶだぁ』(フジテレビ系)の打ち合わせだったんですよ。会議室で待ってたら、スタッフさんの「おはようございます!」って声が聞こえて、志村さんが入って来た。ジーンズにサンダル、ブタのマークが描かれたピンクのTシャツを着てました。ショルダーバッグを持って、黒縁メガネを掛けていたことまで鮮明に覚えてますね。

チラッとこっちを見て、そのまま素通りして定位置につかれたんです。それからスタッフさんと談笑して、30分ぐらいしたらスーッと僕の目の前に椅子を置いて座りました。記念すべき第一声は「名前は?」。一気に緊張して、自分の名前や年齢を噛みそうになりながら答えました。


――志村さんを目の当たりにして、すごみのようなものを感じたんでしょうね。

人生で初めてオーラというものを見ました。後ろに照明のライトを背負ってる感じで、ビャーンと光る仏像みたいでしたね。テレビで見てた方が目の前にいて、しかも話し掛けられたって感動もありました。

その時に言われて強烈に覚えてるのは、「教えることはできないけど、見てやることはできるから」という言葉です。最初は「ん? 教えてくれないんだ。見てやるってどういうことだろう」と思って。追々意味はわかるんですけども、その時はまったくわからなかった。初対面は、それぐらいの会話でしたね。

翌日が『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(TBS系)の打ち合わせで、今度は加藤茶さんとの初対面。もうパニックですよね、2日連続でスターに会っちゃうわけだから(笑)。志村さんのマネージャーさんを介してご挨拶すると、加藤さんから笑顔で「そっか、頑張れ」と言っていただきました。ライトな口調は、今とあんまり変わらないですね。加藤さんとは、今でもメールなどでやり取りさせてもらっています。

栃久保誠撮影
栃久保誠撮影

「山崎くん借りていいですか?」で前説デビュー

――付き人時代、印象的だった志村さんの言葉はありますか?

「次の次まで把握しておけ」っていうのはよく言われました。たとえば現場で志村さんから「次のコント、何だっけ?」と聞かれたら、「次は○○なので医者の衣装に着替えます」と伝えますよね。そこから続けて「その次ってまた白衣だよな?」と来た時に「えーっと」なんて台本読んでると、「何でお前、次のことしか考えてないの?」とツッコまれます。もっと視野を広げなさいという教えですよね。

怒鳴られたり殴られたりっていう記憶はないんですけど、すっごい小声の低いトーンで怒るから逆に怖かった。僕にしか聞こえない声で「何回言ったらわかるんだ? 次の次まで把握しておけっていつも言ってるだろ」と話す。ただ、怒った後の次の言葉が「今何時?」だったりするんですよ。「え、これボケろってことかな」って戸惑うぐらい急に日常に戻る。そこは本当に後を引かない方でした。


――注意するのは一瞬だったと。志村さんの付き人をしながら、どんな経緯で人前に出る足掛かりをつかんだんですか?

最初は『加トちゃんケンちゃん』の「おもしろビデオコーナー」の前説です。付き人になって半年ぐらい。やっと付き人の仕事に慣れて来た頃ですね。楽屋にいたら、突然プロデューサーとディレクターが駆け込んで来て、「いつも来る前説の方が連絡ミスで来れなくなっちゃいました。ちょっと山崎くん借りていいですか?」と言われたんですよ。

「え?」って唖然としてたら、志村さんが「加藤さん、山崎でいいすか?」と振って、加藤さんも「いいんじゃねぇか」って。それを聞いたプロデューサーがすぐ僕の腕をつかんで、2人でダッシュですよ。頭が真っ白の状態でTBSのGスタジオっていう一番大きなスタジオに到着して、そのままマイク渡されてADさんにドンッと押されました。

目の前には、約300人のお客さん。ワーッと拍手が起きた直後に「え、誰?」みたいな反応があって、汗びちょびちょになりながらも、とにかくしゃべりました。だいたい本番の5分前に加藤さん、志村さんがスタジオに到着するんですけど、その時は30分前に志村さんが来て、スタジオの一番後ろにあるカーテンの横からずっと見てたらしいです。後々照明さんに言われて知ったんですけど、嬉しかったですね。

収録の1本目と2本目の前後に前説・中説・後説があるんですけど、中説に加藤さんがサプライズ登場してくださったりして、その日はなんとか終えることができました。楽屋に戻って「お疲れ様でした」とご挨拶したら、志村さんが「来週から山崎でいいすか?」と加藤さんに聞いてくれて、「いいんじゃない」と受け入れてくださったことで、その後もやらせてもらえることになったんですよね。

テレビ番組の録画撮りのためのスタジオで、スタッフを呼び、進行上の注意を伝える志村けん=1988年5月
テレビ番組の録画撮りのためのスタジオで、スタッフを呼び、進行上の注意を伝える志村けん=1988年5月 出典: 朝日新聞

「ちょっと山崎をイジッてやろう」

――初めてのテレビ出演は、『だいじょうぶだぁ』のコントで演じた通行人役だったそうですね。

そうです。志村さんの横で灰皿持ちしてたんですけど、リハーサルの時に「お前ちょっと歩いてみな。俺こっちから歩くから」と言われて。実際に歩いてみたら、出した足と同じ側の手が前に出ちゃうみたいな。リハとはいえ、スタッフさんが何十人も見てる前だから緊張してたんですね。すれ違いざまに志村さんから、「そんなヤツいねぇだろ」って頭を引っぱたかれました(笑)。

いざ本番となった時に、突然志村さんから「お前、俺の肩にぶつかってこけろ」と言われたんです。けど、酔っ払い役の志村さんにどうやってぶつかってこければいいかわからない。もうこっちは汗とドキドキが止まらないわけですよ。それでもなんとか演じたら、志村さんがアドリブで「痛ぇな、この野郎!」って僕をボコボコにし始めた。スタッフさんは大爆笑ですよ、僕のことただの通行人だと思ってますから。志村さんの中で、「ちょっと山崎をイジッてやろう」というのがあったんですかね。

本番終わりの楽屋で「ありがとうございました」と伝えると、志村さんから「な? 歩くだけなのに難しいってことがわかったか。これからは『どうやって歩くと画になるか』『どうやって歩くと面白いか』を考えながら歩け」と言われました。

それと、「好演をしろ」とも。好まれる演技。自分だけ目立とうとか笑いとってやろうとかじゃなくて、「自分の役割は何なのか」「誰を引き立たせるコントなのか」みたいなことですよね。それこそ、『全員集合』で高木ブーさん、仲本工事さん……と順番に出て来るっていうのも、そういうことなんだろうと思います。


――コントでの演じ方だけでなく、チームワークを意識した笑いについてもアドバイスがあったと。

裏方の重要性についても教わりました。ある時、「ネタ考えるのは当たり前だけど、時間があったらいろんな部署行っていろんなこと覚えてこい」と言われたんです。それで、美術セットの建て込みを見たり、カツラの作り方、着物の帯の結び方、ヒゲ残し(無精ヒゲ)のメイクのやり方、撮影の仕方とか、いろんなものを見て回りました。最終的に全部署行きましたね。

たとえば大道具さんのところで、「お前の身長が六尺だよ」と言われる。そうすると、「僕は180センチだから、一尺が約30センチか」みたいなことがわかってくるんです。照明さんが使う棒を「六尺棒」、襖の長さが「一間(六尺)」と知識が増えていって、現場で師匠が言う「一尺左だな」って言葉も理解できるようになりました。

ちょっと生意気なんですけど、青図(スタジオセットの図面)も読めるようになって。当時の『だいじょうぶだぁ』のチーフディレクターから、「なかなか青図読める付き人いないだろ」と言われた時は嬉しかったですね。師匠が伝えたかったのは、「コメディアンは笑いを考えるだけじゃなくて、昔からずっと継承されてきた美術さんや技術さんの手法も知っておかなきゃダメだ」ってことなのかなと思います。


――スタッフや共演者のみなさんの中に早く山崎さんを溶け込ませよう、という思いもあったんですかね?

それもあったかもしれないですね。食卓のあるコント終わりにご飯が余ってると、志村さんから「山崎、これ食っちゃえ全部。次のコント始まる前に食えよ」と言われて、リハが始まるまでの3分間でダーッと食べたこともあります。その様子を撮影しながら、「コントになるな、これはこれで」ってスタッフさんが爆笑してました。

あと医者のコントで注射針があると、志村さんが「ちょっと山崎ケツ出してみな」と言って僕のお尻に目掛けて投げたり(笑)。針がお尻に刺さってプルーンって揺れるんですよ。それを見た加藤茶さんが腹抱えて笑ってました。いまだに加藤さんはそれ言いますからね、「家帰った後に思い出して5分ぐらい笑ってた」って。

今だとコンプライアンス的な問題が出ちゃうかもしれないけど、僕にとってはすごくありがたいイジりでした。現場の遊びの中で勉強させていただいた感じなんですよね。

栃久保誠撮影
栃久保誠撮影

年を追うごとに師匠と会話ができている

――1992年にお笑いコンビ「ジョーダンズ」が解散(2007年2月)、2015年9月にオフィス北野(現:TAP)を退所されています。それぞれのタイミングで志村さんとはお話しになったんでしょうか?

話はしましたけど、とくに何もおっしゃらなかったですね。「コンビ解散しました」と伝えたら「あ、そう。まぁ頑張れ」。「(ビート)たけしさんの事務所辞めました」と言ったら、「あ、そう。頑張るしかないな」っていうすごくフラットな感じでした。

志村さん自身もよく口癖で、「頑張るしかないな」とおっしゃっていましたね。経緯がどうだとか、あの時こうすればよかったとかは悔いても仕方ないし、そんなことはどうでもいい。「失敗したなら、次頑張るしかない」という考えでした。怒っても引きずらないように、一貫してそういうさっぱりしたところがありましたね。

僕が付き人を辞めるとなった時も、そのタイミングから急に師匠の“あたり”が優しくなった。付き人から離れたら、師匠の中ではもう一人のタレントなんだと思います。そういうところがすごくはっきりした方で、逆にちょっと怖いぐらいでした。ただ、最近になって「その潔さが大事」だと思えるようになって来たんですよね。


――具体的には、どんなところでそう感じたんでしょうか?

コンビ解散や事務所を辞めるのって、その瞬間はネガティブな気持ちにもなります。でも、結果的にはコンビ別れして『TVチャンピオン』(テレビ東京系)、『世界バリバリ バリュー』(TBS系)みたいなレポーター、ロケ番組が増えたんです。『踊る!さんま御殿!!』(日本テレビ系)にも一人で出演しましたしね。

フリーになってからもそう。まさか僕がニュースキャスターやるなんて思わなかったですもん。『ギルガメッシュないと』(テレビ東京系)でデビューしたタレントが横浜の行政のニュースを読むわけですからね(笑)。ウジウジ悩まず、「次に向けて頑張ろう」と思えたのは、師匠のスタンスを見ていたからだと思います。

もう一つ、それぞれの局面で新しい分野に挑戦できたのは、番組の前説を4年半やらせてもらった経験がすごく生きています。人の気持ち、その時の空気を読みながら対応するという意味では、どんなお仕事でも同じですからね。師匠のもとで修業したからこそ、対応力が身についたと感謝しています。

ザ・ドリフターズのみなさんにも、感謝の気持ちでいっぱいです。加藤さんはいつも笑顔でたくさんイジッてくれましたし、仲本さんはご自分が経営する居酒屋でよく飲ませてくれました。高木さんは、よく車に乗せてくれて自宅まで送ってくださいました。そして、いかりや(長介)さんは食事に行って昔のドリフの貴重な話をたくさんしてくれました。一番下の後輩にあたる志村さんの付き人ということもあって、ドリフのメンバーみなさんはいつも優しく接してくださったんでしょうね。

志村さんが最初におっしゃっていた「教えることはできないけど、見てやることはできる」っていうのは、「お笑いは教えることができない。見て勉強して自分のものにするしかない」ってことだと思うんです。

付き人の頃は首を捻りながら聞いていたことが、後々になって「こういうこと言ってたのか」と思ったりもする。とくにお亡くなりになられてから腑に落ちる言葉もあったし、今後もそういうのがいっぱい出て来る気がするんですよ。変な話ですけど、年を追うごとに師匠と会話ができてる。それが少し楽しみでもあるんです。

志村さんから期待されていたのだと思う――取材を終えて

師匠と弟子の間には、他人では理解し難い何かがある。あこがれと厳しさが入り交じる中で、自分なりの持ち味を体得していかなくてはならない。とくにお笑いの世界は、「空気を読む」というニュアンスも含まれるだけに実に難儀だ。

その中、山崎さんは志村さんから期待されていたのだと思う。インタビューの随所で「自分のノウハウをすべて教えておきたい」という思いが伝わって来るようだった。レポーター、ニュースキャスターを経て、次はどんな形で師匠の教えが生かされるのか。山崎さんの今後を楽しみにしている。

栃久保誠撮影
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