バナナマン、東京03の公演をサポートし、最近ではテレビやラジオのドラマ脚本も手掛ける放送作家・オークラ。そんな彼の自伝本「自意識とコメディの日々」(太田出版)が昨年12月に発売された。本に書かれたエピソードを踏まえて、笑いの原点の一つとなっている志村けんやザ・ドリフターズの影響、ダウンタウン旋風の中で切磋琢磨した仲間たちとの逸話など、じっくり語ってもらった。(ライター・鈴木旭)
――昨年の年明けに放送された『バナナマンのバナナムーンGOLD』(TBSラジオ)の中で、手相芸人の島田秀平さんから「今年は形にするのが大事」と言われていましたが、しっかりと本を出されましたね。
言われてみればたしかに。コロナの影響で『ドラゴン桜』(TBS系・第2シリーズの脚本を担当)の撮影が遅れてたから、ドラマのことかなっていうのもありましたけど、もしかすると本だったかもしれないですね。どっちのことか忘れちゃいましたけど、全部が島田くんのおかげだって意識はないです(笑)。
――刊行された「自意識とコメディの日々」には、『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ系)に志村けんさんが出演した際のエピソードも出てきます。オークラさんにとって志村さんはどんな存在ですか?
志村さんは僕が子どもの頃から見てますからね。お笑いの原体験として、血となり肉となってるような方。昔を思い出して「何に最初に笑ったか?」って言ったら、志村さんじゃないかなって思うぐらい染みついています。
ただ、次第に『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)を見始めて、志村さんがやっている笑いから“楽屋芸”のような大人の感じに興味を持つようになっていきました。
「ドリフの笑いって子どもっぽいな」と思いつつもコントが好きだったから、最初は『8時だョ!全員集合』(TBS系)を見て、メインのコントが終わったら『ひょうきん族』の「タケちゃんマン」に移行するというダブルスタンバイの状態でした。
その後、『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(前同)がスタートします。そこで行われるコントは好きだったのですが、その頃から、とんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンが現れるんですよ。より年齢の近いそういった方々の笑いにシンパシーを感じるようになってくるんです。
――私も同じ時代のバラエティーを見ているので、その空気感はすごくわかります。
ただ、自分が芸人になった時に『志村けんのだいじょうぶだぁ』(フジテレビ系)を見直したんですよ。改めて柄本明さんとのコントを見た時に、「なるほど。こんなパターンがお笑いにはあるんだ」って感銘を受けましたね。
たとえばおでん屋のコントで、柄本さんが本物のお酒を注ぎながら何かを思い出したように笑い始めるんです。志村さんが「なに笑ってんですか?」って聞いて、「いやもう、こっちの世界だから入って来ないで」っていうのを延々と繰り返す。
完全に芝居の笑いだなと思いつつ、あるあるでもあるし、シュールなところもある。けっこうそういうコントが多かったりするんですよ。
志村さんっていうのは、最初にハマって1回離れて、笑いをやるようになってから、またそのすごさに気づくというか。僕自身も志村さんの笑いを吸収して、自分のネタとして出してもいますから。
志村さんってお芝居系のシチュエーションコントがすごくうまいんだろうなと思います。NHKで放送された『となりのシムラ』も、まさにその路線ですからね。
――2012年に開催されたももいろクローバーZのイベント「子供祭り」で『全員集合』を再構成したコントを手掛けていますよね。改めてドリフのコントを見直してみて感じたことはありますか?
まさしく子どもがそうなんですけども、お笑いを見慣れてない人には「ここが面白いポイントなんだよ」っていうのをわからせないと、なかなか声を出す笑いにつながらないんです。
だから、ボケとツッコミというものが存在するのであって、何かボケたらツッコむことによって笑いのスイッチになっている。
でもドリフって、いかりや(長介)さんがツッコミとはいえ、そういう構造がほとんど音なんですよ。「コンッ!」みたいな音で表現されていたりする。
学校のコントとか見ても、ことわざの「石橋を叩いて渡れ」を「いかりやを叩いて殺せ」って言った瞬間に、教師のいかりやさんが机に体重を乗せて、浮き上がって来た天板に勢いよく顔をぶつけるんですよね。
「コラッ」って怒るんじゃなくて、トタンで作られた天板の「バンッ!」って衝撃音と一緒にズッコケる。そこで子どもがバーッと笑うんです。そういうところはすごく計算されていると思いました。
ももクロのコント台本を書いた後、自分でそういうのを寄せ集めた「~崩壊シリーズ~」という舞台を3回ぐらいやったんですよ。音というよりも、ドリフの“屋台崩し”みたいな要素がいろいろ入ったもの。ある事件が、別のところでもつながって一つの話として浮き上がって来るような話です。
――舞台「東京03 FROLIC A HOLIC」(東京03、おぎやはぎ、浜野謙太、GENTLE FOREST JAZZ BANDらが出演する特別公演)でも、ハナ肇とクレージーキャッツ、ドリフの音楽的な要素をオークラさんのフィルターを通して表現しているのかなと感じます。
笑いに関してはそこまでクレージーやドリフを意識しているわけではないですけど、いわゆるジャズとかの融合の仕方はそうかもしれないですね。
「FROLIC A HOLIC」について言うと、イギリスのモンティ・パイソン的な笑いと、クレージーやドリフみたいなどっちかと言うと“アメリカ的な笑い”がうまく融合できたらいいなって。ジャズとかの使い方で新しいパターンを作りたいなというのはありますね。
モンティ・パイソンって時代ごとにいろんな人に影響を与えてますよね。70年代のTVコントはもちろん、ラジカル・ガジベリビンバ・システムもモンティ・パイソンを舞台でやろうと宮沢章夫さんが構想したと聞いたことがあります。ごっつええ感じもそのニュアンスは入ってますよね。ラジカルの演出助手にいた三木聡さんも作家で入っていたし……。
――2001年に新宿の街でバナナマンの単独ライブ「激ミルク」のチラシを見た時は衝撃的でした。当時、お笑い芸人のライブでポップアートを思わせるデザインは珍しかったですよね。あのイメージは『夢で逢えたら』(フジテレビ系)のオープニング映像からインスパイアされていたりするんですか?
『夢で逢えたら』のオープニングは、後々見て「こんな格好よかったんだ」って思ったんですけど、そこではないですね。完全に(クエンティン・)タランティーノの『パルプ・フィクション』とかガイ・リッチーとかっていう時代の影響です。そういう映画の字体と、シティボーイズの舞台がどんどんマッチしていったんですよ。
タランティーノってお笑いの感覚もあるのに、全体がすごいクールで格好いいじゃないですか。そういうものにすごい影響を受けて、たぶんああいう感じになったんだと思います。バナナマンと僕はそういうのが好きで、「この映画のこの部分でコントになるよね」といった話はよくしてましたね。
――本の中でも当時受けたカルチャーの影響は書かれておりました。また同時期、バナナマンさんだけでなく、ユニットライブでは元ラーメンズの小林賢太郎さんともネタを書いていたというエピソードが出てきますがどのような空気感だったのでしょうか。
ネタ作りしてる時は、「あのネタはああいうパターンだよね」とか「シティボーイズってこうだよね」ってよく話してましたよ。コバケンに限らず、設楽(統)さんともそうですけど、先輩コント師の分析は延々と。
多少遊ぶタイプの人もいたんですけども、少しオタク気質のヤツらがお笑いやり始めたっていうのは、まさしく松本(人志)さんの影響だと思うんですよね。お笑いっていうものをあれだけカルチャーっぽく見せるのと、いわゆる「明るい者だけの専売特許じゃねぇんだぞ」って見せてくれたっていうか。
――たしかに芸人に“クリエイティブなイメージ”がついたのは、松本さん以降だと思います。
しかし、若手芸人の現状は違っていました。僕らがライブシーンで切磋琢磨していたのって、ちょうど『進め!電波少年』(日本テレビ系)の全盛期で。ユーラシア大陸を横断した猿岩石がスターになってた頃なんですよ。
これって結局、若手芸人に無茶をさせて笑う構造なんですが、「電波少年のあそこに出ればスターになれる」って神話があって。それはそれで面白いのですが、当時のテレビマンからすると、ネタを極めようとする芸人ってどうしても「お前らやってんな」みたいな感じに映る。それで変な悪口とか言われるわけですよ。
ラーメンズなんかは、それにしっくりこなかったんでしょう。「もう舞台しかやらない」って選択をしたじゃないですか。でも、今思えばそういう段階があったからこそ、(公演の脚本・演出などで関わる)東京03につながる土壌ができたのかなって気はしますね。
『ごっつええ感じ』に志村さんが出演した時のことは私も鮮明に覚えている。世代の違うスターの初共演にドキドキとワクワクが止まらなかった。2組は関東と関西、コントと漫才(ダウンタウンはコントもやっている)という違いもあったが、その後お互いの番組で共演し息の合った掛け合いを見せた。
志村さんは『底抜けてんやわんや』といったアメリカの喜劇映画、ダウンタウンはイギリスのコメディーグループ「モンティ・パイソン」の影響が見られ、そんな笑いを見て来たオークラさんが東京03の公演を手掛けている。もちろん今回の話の中で出た影響がすべてではないが、それぞれの笑いが時代を経て昇華されていることにグッと来るものがあった。