地元
沖縄では新年号が大みそかに配られる 新聞社員も知らなかった戦後史
復興期の報道を支えた少年たちの誇らしさ
お正月の新聞「新年号」。沖縄では、大みそかの夕方から夜にかけて配達される。沖縄県民にとっては年の瀬の風物詩のひとつだが、県外の人たちは不思議そう。確かにどうして大みそかに配達?調べたら、驚くことに沖縄タイムス社員の誰も経緯を知らない。退職した先輩たちをたどって取材を進めていくと、戦後復興期の少年たちの姿があった。(沖縄タイムス記者・照屋剛志)
2021年大みそかの午後7時、今年も我が家に「新年号」が届いた。全部で126ページあり、5集に分かれている。大型連載の1回目がトップを飾り、全国で活躍する沖縄出身のスポーツ選手や芸能人のインタビューなど多彩な記事で読み応えがある。年末ジャンボ宝くじの抽選結果を楽しみにしている家庭も多いそうだ。
県外の人たちによく珍しがられるので、全国では新年号を元日に配達していると認識はしている。でも大みそかに配達している地域は、沖縄以外にもあるだろう。
と、思って年が明けた2022年、日本新聞協会に問い合わせてみた。
電話に出た職員は「沖縄では、新年号を大みそかに配達するんですか?」と意外な様子で、新聞販売の担当者に確認してくれた。「調査をしたことがないので断言できないが、聞いたことがないので他の地域ではないと思う」との答え。
あれ、沖縄だけ? なぜ、沖縄だけ大みそかに配達しているのだろう……。
真相を調べるため訪れたのは、新聞販売を管轄する沖縄タイムス社読者局。販売部長の譜久原准さんは、大みそか配達の理由を「販売店主と配達員の慰労のため」と教えてくれた。沖縄タイムスでは、毎年1月2日は休刊日となっており、1月1日付の新年号を12月31日に配り終えることで、1月1日と2日の2日間を休める。1年に1度だけの2連休だ。賢い考えだとうなずく。
では、いつから始まったのだろう
なめらかに答えていた譜久原さんが、考え込む。通りかかった読者局長に水を向けると、腕組みし、固まってしまった。そして2人とも「分からない。入社当時から大みそか配達だった」。これは時代をさかのぼって調べる必要がありそうだ。
社史を開いてみるが、大みそか配達に関する記述はない。沖縄タイムスを定年退職した先輩たちに聞いてみよう。
総務局で、新聞販売に詳しそうな退職者を教えてもらう。販売局(現・読者局)で定年を迎えた3人に電話で問い合わせたが、3人とも「入社した時には大みそか配達だった」という。
そうしてたどりついたのが4人目の金城政次さん(81歳)だ。「もともとは新聞少年のため」と当初の理由を答えてくれた。
金城さんが入社したのは1956年。アメリカ軍に支配されていた沖縄は、戦災からの復興期を迎えていたころだ。「当時は、家計を助けるため、自分の学費を捻出するためにと、子どもたちが新聞を配達していたんだよ」。
学校が早く終わる小学生は夕刊。朝刊は中高生が多かった。自転車は高級品で、みんな徒歩で配達していた。新聞を購読している世帯も多くなく、那覇市内でも50部を配るのに駆け足で2時間かかっていたという。
「たいへんな仕事だが、収入を得る目的がしっかりしているから、みんな意識が高く、責任を持って毎日新聞を届ける。時間と体調の管理も身につくので、新聞少年に対する世間の評価はとても高かった」と金城さん。そんな新聞少年たちのたまの休みだからこそ、「大みそか配達が読者に受け入れられた」とみる。
なるほど、とても納得のいく推察だ。ところで、大みそか配達が始まったのはいつですか?
「分からない。私が入社した時から大みそかに配っていたよ」
え! 1956年にはすでに大みそかに配達していた?
沖縄タイムスの創刊は1948年。創刊から8年後には新年号を大みそかに配っていたとは、何か深い理由がありそうだ。
総務局から借りてきた退職者名簿をめくって、次は誰に聞こうか思案していると、社史編纂(へんさん)の社員から、元専務の宮城鷹夫さんなら何か知っているはずと紹介された。
御年97歳の宮城さんは、退職者名簿でも2番目の高寿。専務まで務めたのなら、会社全体に詳しいはず。これは期待できるかも。そして最後の頼みの綱かも。
期待と不安の両方のどきどきを抱えながら、宮城さんを訪ねた。
「新年号の大みそか配達は1952年から。1953年1月1日付の新年号からだね」。宮城さんは即答し、さらに続ける。「当時はページ数がどんどん増えていった上に、7月には夕刊を発行したんで、業務局(現・読者局)が配達員の負担をとても心配していた。業務局長からの打診を受けて、編集局長が了承したのを覚えている」。
70年前のできごとを明快に答えるさまに驚嘆した。
社史の年表と照らし合わせる。沖縄タイムス社は、1952年4月にアメリカ軍払い下げの普天間印刷局を買収し、これまで週1回だった朝刊4ページの発行を5月から毎日にしたとある。そして7月には夕刊2ページの毎日発行も始めた。
新しい印刷設備を手に入れたので朝夕刊ともに毎日発行できるようになったわけだが、これだけの急展開だと新聞を配る側は苦労しただろう。さらに新年号は1951年の8ページから、1952年に12ページ、1953年には16ページと2年で2倍に増えた。比例して重さも2倍になり、新聞少年の負担も2倍となる。
先の金城さんは「新年号は、全部を持ちきれず、販売店に何度か取りに行くケースもあった」と振り返る。特に配達が難儀な新年号。大みそか配達で、急激に増えた負担もいくぶんか和らいだだろう。金城さんは「人々が情報を渇望していた時代。記者は体を張って懸命に新聞を作ったが、新聞少年も情報を届ける担い手だった。彼らも沖縄の報道文化を支えていたといえる」と話した。
新聞少年のために始まった大みそか配達。まさか戦後復興期までさかのぼるとは思わなかったが、70年前の少年たちが誇らしく思えた。
1/6枚