IT・科学
銃撃犯の名を〝封印〟したアーダーン首相「凶暴な文化的英雄」の末路
メディアの不滅性などないという答え
【眠れぬ夜の死の話】
メディアやSNSなどを通じて発信される著名人の自殺や大量殺人など衝撃的な情報は、私たちにどのような影響を与えているのでしょうか。昨年12月、著名人の自殺報道について厚労省が配慮を求めました。過去の報道を参考にしたと思われる放火事件も起きています。それでもメディアが伝えなければいけない時、何が必要なのか。評論家で著述家の真鍋厚さんが「死とメディア」についてつづります。
「ウェルテル効果」と呼ばれている現象がある。社会学者のデヴィッド・フィリップスが1970年代に実証した。
名称は1774年にゲーテが著した小説『若きウェルテルの悩み』に由来する。主人公の自殺という結末に誘発された当時の若者が、同様の方法で自殺を試みた例が多発したからだった。
日本での先駆けは1903年(明治36年)のエリート学生、藤村操の華厳滝への投身自殺に伴う自殺の連鎖である。「人生は不可解である」という謎めいた言葉を残した遺書「巌頭之感」などが大々的に報じられた。
これは「模倣自殺(copycat suicide)」とも言われ、ソーシャルメディアが普及し有名人をより身近な存在として感じる現在では、急速に広範囲に作用することが懸念されている。
ジャーナリストのジェイミー・バートレットが言うように、「ウェルテル効果が発生するのは、人間が社会的な生物だからだ」(『闇(ダーク)ネットの住人たち デジタル裏社会の内幕』星水裕訳、CCCメディアハウス)。
12月に亡くなった女優を巡っては、厚生労働省が「著名人の自殺に関する報道は、その報じ方によっては、著名人をロールモデルと考えている人(とりわけ子どもや若者、自殺念慮を抱えている人)に強い影響を与え、『模倣自殺』や『後追い自殺』を誘発しかねません」と警告した。
データから著名人の自殺2件とその後の自殺者数の動向を分析したところ、過去のケースにおいて、自殺日から 10 日間で、約200人が自殺・自殺報道の影響を受けて亡くなった可能性があるとして、センセーショナルな報道を目にしたことがトリガー(引き金)になっているとの見解を示した(いのち支える自殺対策推進センター(JSCP)主催「第1回自殺報道のあり方を考える勉強会」実施レポート)。
12月17日には、大阪市北区の雑居ビルで25人が死亡した放火殺人事件が起きた。雑居ビルに入っていた心療内科クリニックに60代の男性が放火し、職員や患者らが犠牲になった。大阪府警は、計画的な犯行との見方を強めている。
恐るべきことにここでもウェルテル効果と似た「模倣」の疑いが影を落としている。36人の犠牲者を出した京都アニメーションの放火殺人事件に関する新聞記事などが男性の住居から見つかったからだ。男性の死亡により動機の解明は困難になったものの、新聞記事は単に放火の手段の参考として使われただけではないことも考えられる。
米国における銃乱射事件について、社会科学雑誌「ニュー・アトランティス」の編集者アリ・N・シュルマンは、大量殺人が模倣行為であり、犯人は模倣者であるとの見解がここ数年で確立したと述べた。
「アリゾナ州立大学の数学者シェリー・タワーズ氏の研究によると、銃乱射事件が発生する確率は、直前に別の銃乱射事件が起きた場合に大幅に高まることが判明。発生確率が高まる期間は平均で13日間であることも分かった」という。
また、「特定の銃撃犯がそれ以前の銃撃犯を称賛したり、そこから学習したりした具体的証拠」もあるとした(銃乱射事件、連鎖のわけ 世間の注目が引き金に/2017年11月24日/WSJ)。要するにインスパイアされることがあり得るのである。
人類学者のエリオット・レイトンは、犯人は大量殺人が世間に大きな衝撃をもたらすことに意識的だと指摘する。
「凶暴な文化的英雄というアイデンティティの抜け道は、殺人者に称賛や愛情はほとんどもたらさないだろうが、大衆の敬意とマスコミの注目は確実に約束されている。それによって称賛や愛情の欠如は十分に償われるだろう。この特殊な意味において、殺人の価値と行動は、主流文化と完全な調和を保っているのである」と(「大量殺人者の誕生」中野真紀子訳、人文書院)。
つまり、メディアの生態系とその波及力を内面に織り込んだ上での犯行と捉えることができるのだ。
このような視点に基づく事件の連鎖は、日本では古くは1938(昭和13)年から見いだせる。津山事件である。
横溝正史の小説『八つ墓村』などのモチーフになったこともあり、日本における大量殺人の代名詞にもなっているが、犯人が別の有名な事件に触発されたことはあまり知られていない。昭和初期の猟奇事件として名高い阿部定事件(1936〈昭和11〉年)だ。
男女の痴情のもつれによる殺人として阿部定事件は一大センセーションのように報じられた。犯人は直後から新聞記事を熱心に収集し、「阿部定は好き勝手なことをやって日本中の話題になった。わしがどうせ肺病で死ぬなら、阿部定に負けんような、どえらいことをやって死にたいもんじゃ」と周囲に語っていたことが分かっている。
作家の筑波昭は、「もしこれが事実とするならば、(略)凶行の動機には、結核による絶望と部落民への憎悪のほかに、強烈な自己顕示欲があずかっていたにちがいない」(『津山三十人殺し』新潮文庫)と述べた。
筆者は、筑波の説に同意を示しつつもレイトンの踏み込んだ分析が真実に近いように思われる。「むしろ彼らは、殺人という社会的発言が一種の不滅性をもたらすのを承知した上で、一息に続く爆発的行動によって復讐を果たし、死にたいと願っているのである」(前掲書)。
これを筆者なりに言い換えると、社会に永久に消えない傷を残すことによって、自らの存在の報われなさを癒やすのである。しかし、社会というあいまいなものが傷付けられない以上、実際に傷付けられるのはたまたま居合わせた人や通りすがりの人だ。
昨年、ハロウィーンと衆議院選挙の投開票日を直撃した京王線の刺傷事件で、犯人が犯行後、電車内でタバコを燻らせていた動画がTwitterなどでシェアされ、一時的にタイムラインを席巻した。このような注目のされ方こそ犯人が心底望んでいたことかもしれないのだ。
メディアがわたしたちの目と耳に代わり、絶え間ない話題と関心の源泉になって以降、それらはまるで神経系統の一部として機能している。わたしたちはもはやそれを意識しない思考が不可能になっていることに気付かねばならない。
今後、メディアはどうあるべきなのだろうか。
前出のアリ・N・シュルマンは、2017年、ジャーナリズム研究機関のポインター・インスティテュートが承認した伝播効果を避けることを目的とするベストプラクティス(最良慣行)指針を紹介している。
「犯人の名前は必要な場合に限って伝える、イメージが美化される可能性を避ける、『史上最悪の』などの最上級表現を控える」といった内容である。
かつてニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相は、銃撃犯の名前を一切口にしないと誓ったが、これはレイトンのいう「不滅性」を少しでも骨抜きにしようとする試みの一つといえる。
アーダーン首相は議会で、「男はこのテロ行為を通じて色々なことを手に入れようとした。そのひとつが、悪名だ。だからこそ、私は今後一切、この男の名前を口にしない」「皆さんは、大勢の命を奪った男の名前ではなく、命を失った大勢の人たちの名前を語ってください」と演説した(ニュージーランド首相、銃撃犯の名前は今後一切口にしないと誓う/2019年3月19日/BBC)。
引用した後段の言葉はとりわけ重い。
わたしたちが社会的な生物である限りメディア通じて悲劇を消費し、またそこから模倣という恐るべき学びを得る事態は避けられない。
しかしながら、必ずしも悪い面ばかりではない。犠牲者とともに苦しみ、哀悼の意を表すプロセスの中に、他者との死別や、自身の死について、事件に巻き込まれた人と同じような偶然性の感覚を呼び起こす場合があるからだ。
また、人によっては今回のような極端な行為には至らないまでも、自他を傷付ける言動を取っていた可能性を思い返し、その危うい巡り合わせを他人事として片付けられず深く省みたかもしれない。いわば世界の不条理についてどのように向き合うのか考えざるを得なくなるのだ。
大量殺人を犯した彼らは社会の不滅性、メディアの不滅性を疑うどころか強く信じてすらいるといえる。それらを意義あるものと感じているからこそ、破壊に値するとの発想を呼び込んでしまう。
しかし、その破壊は、社会という見えない神の加護から見捨てられたと独り合点したがゆえの背信行為であり、神聖なものを冒瀆する「涜神」としての破壊である。それは、あたかもこの世を超越した世界の実在を妄信するがゆえに生贄を差し出す振る舞いにも似ている。
要するに、すべての社会に対する暴力は挫折を運命付けられている。なぜなら、結局のところ社会とはただの言葉、概念でしかなく、コミュニケーションできる具体的な対象ではないからだ。あるのは、一人ひとりの人間の営みであり、それらが紡ぐ膨大な物語があるのみである。
そして本当の地獄は、社会に対する暴力という空想に強烈な意味感を持つことによってでしか、自らの心を奮い立たせることができない境地に至った思考の変遷にこそある。
ここにこそ肝心の答えが剥き出しになっていることを、わたしたちは自覚し、伝えていかなければならない。
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