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コラム

見られたと思うのは気にしすぎ? アルビノの私が腑に落ちない言葉

「じろじろ眺める」ことがはらむ暴力性

人混みを歩くと、たくさんの視線を感じる……。アルビノ当事者・雁屋優さんは、自身の容姿が好奇の目にさらされがちと感じています。「見る」ことの暴力性について、考えてもらいました(画像はイメージ)
人混みを歩くと、たくさんの視線を感じる……。アルビノ当事者・雁屋優さんは、自身の容姿が好奇の目にさらされがちと感じています。「見る」ことの暴力性について、考えてもらいました(画像はイメージ) 出典: Getty Images

目次

肌や髪の色が薄く生まれる遺伝子疾患・アルビノの雁屋優さん(26)。「ふつう」と異なる容姿に、好奇の視線が注がれる経験を、幾度も重ねてきました。ライターとして、そのことを記事に書くたび、「気にしすぎだ」という読者コメントがつくそうです。反面で、自らも見知らぬ人を意図せず見つめてしまい、後悔した過去があるといいます。「見る」ことの暴力性と、どのように向き合えば良いのか。雁屋さんの考えをつづってもらいました。

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「見られていたよ」友人の言葉で気づいた”視線”

先日、友人と街歩きを楽しんだ後のこと。一緒にのんびりと夕食後の時間を過ごしていると、友人は言いにくそうに、話を切り出した。

「すれ違った2人組に、じろじろ見られていたよ」

私はアルビノの当事者だ。ミルクティーブラウンの髪、白い肌、色素の薄い瞳。日本において、「ふつう」ではない容姿と言える。

アルビノは先天性の疾患で、幼い頃から、”見られる”ことは日常だった。あまりに当たり前すぎて、正直に言えば、周囲から注がれるまなざしへの感覚が麻痺していたところがある。

「あんなにあからさまに見てくる人がいるなんて、思ってもみなかった」。そう語った友人は、アルビノではない。そのため、一緒に歩いてみて初めて、私が普段から、いかに多くの人々の視線にさらされているか知ったのだろう。

「ふつう」の見た目の人々と比べ、どれくらい注目されているのか。そのことを、自分で検証する手段はない。だから友人が心を痛め、悲しむ様子を見て、「これは他の人には起こりえない深刻な事態なんだ」と改めて気づいたのだ。

私は、ライターとしても活動している。他の人と異なる外見に、好奇の目が向けられる点について書くと、きまって「気にしすぎだ」という読者のコメントがつく。しかし決して、そうではないとの思いが、今回の件でより鮮明になった。

道行く人に振り返られ、じっと見つめられる……。雁屋さんは、これまでそういった経験を重ねてきた(画像はイメージ)
道行く人に振り返られ、じっと見つめられる……。雁屋さんは、これまでそういった経験を重ねてきた(画像はイメージ) 出典: Getty Images

自戒を込めて思う「守るべきマナー」

反面で私自身も、大柄な人や派手な髪色の人を、思わず見つめてしまった経験がある。

見慣れないからこそ、怖い。視線を外せない。そんな感覚は、私も覚えがある。偏見に基づいていることは認めるし、反省している。

他人を見てしまったときは、そのことを相手に知られないためにどうすればいいのか、と困惑してしまう。手元のスマホに視線を落としたり、すっと別のところに視線を移したりと、方法はいくつかある。

どの方法を取るにしろ、相手に不自然さを感じさせてはならない。そう意識していても、”見られた”側は、多くの場合、敏感に視線を感じ取るものだ。それは私も、自分自身の経験や、前述の友人の言葉、他の当事者との会話から知っている。

それでも、人間は、相手を見てしまう。この社会において、誰しも、何者かの視線から逃れられない。

しかし、だからといって、他人をじろじろ眺めていいわけではない。特に顔は、人間のアイデンティティーにも関わる部位だ。興味本位で見つめるのは失礼だし、「見たい」という欲求を抑える努力をしなければならないだろう。

自戒も込めて言うと、それは人間として守るべき、当たり前のマナーだ。だから「『ふつう』でない容姿ならば、見られても仕方ない」と結論する人がいるのであれば、私は決して同意しない。

世の中には、様々な容姿の人々が生きている。見慣れない外観の人物を目にしたとき、つい見てしまうことと向き合う必要があると、雁屋さんは考えている(画像はイメージ)
世の中には、様々な容姿の人々が生きている。見慣れない外観の人物を目にしたとき、つい見てしまうことと向き合う必要があると、雁屋さんは考えている(画像はイメージ) 出典: Getty Images

ポジティブに見られることに抱いた安心感

道を歩く。電車に乗る。日常的な行動を取るだけでも、多くの人々の前で何かを発表するときのような、大量の視線が飛んでくる。どういった意図で注がれたまなざしか、分からないのは怖いし、強いストレスを感じる。

一方で、他人から見られていて、不快に感じなかった経験もある。

例えば電車に乗っている際、近くの女性達が私を見て話していた。「どこの美容室でなら、あんな髪の色に染められるんだろう。いいなあ」。私のような色に髪を染めてみたいとの言葉に悪い気はしなかった。

バスの中で、私の顔を珍しそうに眺める人物もいた。私がその視線に気づいて見つめ返すと、その人は「すみません、じろじろ見てしまって」と謝罪した。その上で、私の身体の色素が薄い理由について、丁寧に質問してくれた。

これらのエピソードに共通するのは、相手がポジティブな理由で、私を見つめていた点だ。奇異の目ではないと分かるだけで、少し安心できるものなのだ。

「ふつう」の容姿の人々は、アルビノ当事者と比べて、圧倒的に数が多い。「見る―見られる」という関係性について、思いを共有してもらうのは簡単ではないかもしれない。

それでも、他人から向けられた何げない視線に、恐怖を覚える人もいると認識してくれたならうれしい。

ポジティブな理由で、自らの姿を見られるときは、比較的安心できると雁屋さんは話す(画像はイメージ)
ポジティブな理由で、自らの姿を見られるときは、比較的安心できると雁屋さんは話す(画像はイメージ) 出典: Getty Images

「視線の先にいるのは、人間である」

他人をじろじろ見るのを避けよう。そう思うと、自分が見つめた相手から、とっさに目を背けてしまう場合がある。見ることの暴力性を、意図せず行使する。先述したように、これは私にとっても悩ましい問題だ。決して他人事ではない。

私が考える理想的な対応は、自然な振る舞いを心がけ、相手に容姿を意識していると感じさせないことだ。しかし、これは非常に難しい。見慣れない容姿であればあるほど、人は見てしまう。そして、見られた側は視線を感じ取りやすい。

本当は、見ている理由を相手に伝えられると良いのだろう。ただ、その人と面識がないと声をかけられないし、場をわきまえなければ不審がられてしまう。なるべく凝視しない努力をしつつ、敬意をもって距離を取るのが、差し当たりの最適解かもしれない。

いずれにせよ、忘れてはいけないと思うのが、「視線の先にいるのは一人の人間である」ということ。誰かからの視線を、プレッシャーに感じる人もいるかもしれない。そう意識するところから、他者に対する尊敬の念が湧くと感じるのだ。

そして、そのように考える人が増えていけば、多様な見た目の人々が、安心して生きられる社会の実現に近付くのだろうと思う。

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