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コラム

性行為できない障がい者の私…手放した「普通」の暮らしへの渇望

車いす生活の先で志した自由な生き方

「普通」の生活に手が届かない……。車いすユーザーの篭田雪江さんに、自身が向き合う、狂おしいほどの渇望について考えてもらいました(画像はイメージ)
「普通」の生活に手が届かない……。車いすユーザーの篭田雪江さんに、自身が向き合う、狂おしいほどの渇望について考えてもらいました(画像はイメージ) 出典: Getty Images

目次

車いす生活を送る篭田雪江さんには、長らく憧れてきたものがあります。それは、障がいがない人同様、「普通」の暮らしを送ることです。学校生活を楽しみ、人生のパートナーと出会い、わが家を構え、子どもを授かる。一般に想起される〝順風満帆〟な人生は、どこまでもまぶしく、縁遠いものだったと振り返ります。願い続けた「理想の生き方」の先に、篭田さんはどんな未来を見たのか。つづってもらいました。

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車いすのからだでも「普通」の生き方を

父と母、何人かのきょうだい、あるいは祖父母という家族のもとに生まれ育ち、地元の幼稚園、あるいは保育園、小・中学校を卒業する。その後、高校、大学に進学するか、または就職する。その間、車の免許を取る。仕事に就いた後は親元を離れ、一人暮らしを始める。やがて一生を共にするパートナーと出会い、結婚。数年後、子供を授かり、仮住まいから自分たちの住まいを構え、暮らし始める。休日は子どもたちと遊び、時には学校時代の友人たちと飲みに行く……。

まだまだ完全ではないにしろ、社会のさまざまな場面で「多様性」という概念が浸透してきている。それに反比例して、ほどなく使われることがなくなり、死語となるのではとさえ思われるのが「普通」という概念だ。

「普通」の生き方とは、とはどういうものだろうか。考えは千差万別だろうが、あえて思い浮かぶままに書き出してみたのが、冒頭の文章だ。

実際、こういう生き方をしているひとたちも多いだろう。もちろん、全然異なる生き方をしているひとたちもまた、あまたいる。生き方はひとりひとり異なる。おなじものなど、ひとつとしてない。

それでも私は、「普通」の生き方と形容できるかもしれない冒頭のような生き方にこだわり、生きていきたいと望み続けてきたところがある。もっといえば車いすのこのからだでも、「普通」のひとたちのような、「普通」の生き方ができることをまわりに証明したい、と。

「普通」の日々を送る、障害がない人々に、篭田さんは羨望の眼差しを送ってきた(画像はイメージ)
「普通」の日々を送る、障害がない人々に、篭田さんは羨望の眼差しを送ってきた(画像はイメージ) 出典: Getty Images

きっかけは先輩の普通高校への入学

きっかけといえるできごとがある。養護学校(現在の特別支援学校)中学部二年の時だった。二年上の先輩が、普通高校に合格したのだ。先輩は私より重度の身体障がいを抱えていた。にもかかわらず合格し、健常者の同級生と共に高校生活を送るようになった。合格が決まった時は地元紙にも快挙が掲載された。

私は心底驚き、同時に思った。あの先輩が普通高校に進学できるのなら、自分だって。両親と先生に希望を打ち明け、勉強し、二年後、先輩と同じ高校に合格した。母親による送迎や同伴など、さまざまな条件はあったが、車いすの私でも普通の高校に入れた。誇らしく思うと同時に、普通のひとたちのいる広い世界へと行けることに、身の引き締まる気持ちがした(今の感覚では書くだけで顔から火が出そうな思考だが)。

養護学校の先輩に触発され、篭田さんは普通高校への進学を決意した(画像はイメージ)
養護学校の先輩に触発され、篭田さんは普通高校への進学を決意した(画像はイメージ) 出典: Getty Images

恥辱や孤独で占められた高校生活とその後

だが、3年間の高校生活は総じて楽しいといえるものではなかった。

数は少ないながらも、仲の良い友人はできた。カラオケに行ったり、互いの家に遊びに行ったりもよくした。だが体育がひとり、体育館やグラウンドの隅での見学だったり、授業中に粗相をしたりと、思い出すのは孤独や恥辱が大半を占めている。

よく高校時代の友人は一生もの、というが、私の場合、今でも付き合いのある友人はほぼゼロだ。卒業後、同級生の何人かと町でばったり出会ったことがあったが、挨拶をかわしたくらいで終わったのがほとんどである。

一度、今度飲み会がある、との話をある同級生からされた。それならこれを機にまたつながれれば、と思い、自分も飲み会に出られないか、と申し出てみた。だがその同級生はうーん、と首をかしげた後、「もうメンバーは決まっているから」と言い残し、そそくさと去ってしまった。その表情には「面倒くさいな」という色が浮かんでいた。自分はもしかしたら嫌われていたのかもしれない。この出来事はしばらく私の気持ちを沈ませた。

新生活への期待を胸に入学した普通高校で、篭田さんは健常者の同級生たちになじめず、孤独感を強めていった(画像はイメージ)
新生活への期待を胸に入学した普通高校で、篭田さんは健常者の同級生たちになじめず、孤独感を強めていった(画像はイメージ) 出典: Getty Images

挫折した不妊治療と、これからの不安

養護学校にいる時から、私はずっと恋人と呼べるひとが欲しかった。だが高校時代は女子と話す機会さえ数えるほどだった。就職してからも似た感じで、好意を抱いたひとにも休み時間に話しかけたり、何人かで飲み会に行くのが精一杯。就職から七年後、ようやく生きる時間を共有してくれるひとに出会えた。それは奇跡みたいなもので、そのひとに出会えなかったら、私は今でもひとりきりだったろうと断言できる。

結婚して数年後、パートナーから不妊治療の話が出た。しかし、私の方が消極的になってしまった。障がいのため、性行為ができなかったことや、診察のため訪れた泌尿器科の触診で性的興奮を覚えそうになった屈辱があったからだ。結局、この話は立ち消えになってしまった。

さらに数年後、当時住んでいたアパートの老朽化や私たちの年齢、まわりの薦めなど、諸々の事情に鑑み、市内にささやかな住まいを構えた。ふたりとも特にお金をたくさん使うタイプではなく、田舎故に土地が安いからできたことで、もう少し人口の多い都市だったら絶対無理だったろう。それでもローンの計画はぎりぎりだった。

だがそれからまた数年後、以前から患っていた腎臓の状態が悪化して仕事ができなくなり、20数年働いた職場を退職せざるを得なくなった。だから今は、パートナーの収入と私の貯金を切り崩して、家のローンを払っている。

腎臓が三度目の血管狭窄を起こし、腎血管造影による治療を受け、なんとかもちこたえたのも、つい先日のこと。

そして今年(2021年)の年末。私は40代の半分を越える。これからどうなるのか。どう生きていけばいいのか。不安は尽きないのが実情だ。

パートナーの希望で、不妊治療を試みた篭田さん。しかし首尾良く進まず、諦めざるを得なかった(画像はイメージ)
パートナーの希望で、不妊治療を試みた篭田さん。しかし首尾良く進まず、諦めざるを得なかった(画像はイメージ) 出典: Getty Images

私はどれだけの「普通」を実現できたか

駆け足で、私のこれまでの生き方を、恥を忍んで振り返ったのは理由がある。先に書いた、私の望んできた「普通」が、どれだけ実現し、どれだけ挫折したか、を振り返りたかったからだ。

やはり、というのもおかしいが、思うようにはいかなかったことが多い、というのが実感だ。誤解されそうなので強調するが、そのことを、私の人生はこんなはずでは、などと、必要以上に嘆いているわけではない。思うようにいかないことなど、障がいの当事者だろうが健常者だろうが、関係なく起こりうる。私やパートナーも、思わぬ災厄に襲われても、戸惑い苦しみつつ、くぐり抜けてきたつもりだ。

ただ、細かくできごとを思い出してみると、もし私に身体障がいがなかったら、この望みは叶い、この苦しみはなかっただろうと思うことは少なからずあるのは確かだ。

ひとつ例を上げれば、性行為ができなかったことだろう。もしセックスができていたら、私とパートナーの関係はいろんな意味でもっと深く、わかり合えるものになっていたのだろうか、と想像することがある。そう単純なものではないと頭ではわかっている。だが「した」ことがないから、本質的な意味でわからないのだ。

セックスができていたら当然、特にパートナーが望んでいた子どもも授かっていただろう。ふたりしかいない居間を私たちの子どもが走りまわっていたら。私のからだが普通だったら、当たり前に見ていたかもしれない光景だ。

パートナーとの子どもが授かれない。そのことへの無念は、篭田さんの中で、おりのようにたまっていった(画像はイメージ)
パートナーとの子どもが授かれない。そのことへの無念は、篭田さんの中で、おりのようにたまっていった(画像はイメージ) 出典: Getty Images

当事者が「普通」を手にすることの困難さ

同じような漠然とした寂寥感(せきりょうかん)を抱いているのは、私だけではないかもしれない。

前職場には、幼い頃の事故で両腕が不自由になった後輩女性がいた。腕の代わりは両脚だった。仕事ではデスクに脚を上げて、パソコンのキーボードをたたき、食事では右足の指に箸やスプーンを挟んで器用に動かし、食べていた。

性格もおだやかで、誰からも好かれていた。やがて、膝の痛みを訴え、手術を受けた。だが術後の経過が悪く、頼みの綱の両脚もうまく動かせなくなり、ほどなく退職してしまった。今は自宅で家族と過ごす毎日だ。

彼女のツイッターを教えてもらっていたので、退職して少し経ってから彼女のツイッターをのぞいてみた。何気ないつぶやきのなかに、あるつぶやきがまぎれていた。

辛くてもいい。楽しくなくていい。やはり私は仕事がしたかった。

もし、彼女が普通のからだだったら。自分の中でタブーにしている“If”がその時、頭をよぎった。彼女が普通のからだだったら、したい仕事もし、遊びにも自由に出かけ、やがて好きなひととも出会い……。私に返せる言葉など、あるはずもなかった。

職場の元同僚のツイートは、篭田さんの心をかき乱した(画像はイメージ)
職場の元同僚のツイートは、篭田さんの心をかき乱した(画像はイメージ) 出典: Getty Images

普通を望めなかった私にできることは

障がいの当事者もまたさまざまで、私が望んでいた「普通」を手にしているひともいる。直接の知り合いではないが、仕事もパートナーもあり、子どもも授かっている脊髄損傷の車いすユーザーを知っている。私と同じ脊損なのに、なぜセックスができて、子どもも作れるんだ、と、そのひとにとっては不条理きわまりない思いにかられたこともある。

私のように、冒頭に書いた「普通」の生き方を、障がいや病気が理由で、望みたくても望めず生きてきた当事者は、他にもいるのだろう。後輩女性もそうだろうか。

世間が驚くような功績を挙げたり、有名人になりたかったりするわけではない。ただ、なにげない「普通」が欲しかった。でもそれが覚束ないからだや病のため、手にしたくてもできないのは、やはり辛いことだ、と思う。私たちが「普通」を望んでなにが悪いのか。そう叫びたくなるときだってあった。

そんな私たちは、どう生きたらいいのか。明確な答えなどあるはずもない。ただ、「普通」というのは自らを縛る呪縛かもしれない、だから執拗(しつよう)にこだわるのはやめ、もっと自由に生きるべきだ、と、この年齢まで生きて、ようやく思え始めている。

今ある自分のちからを絞り出し、「普通」にこだわらず、今手にできることをしよう。手にしようともがく。もがいてもおそらく、手にも脚にもなにも残らないことがほとんどかもしれない。

でも、やはり私はそうすることをあきらめたくない、と思うのだ。

「普通」にこだわらなくてもいい――。そう思ったとき、自由な生き方がしたいという希望が湧いてきた(画像はイメージ)
「普通」にこだわらなくてもいい――。そう思ったとき、自由な生き方がしたいという希望が湧いてきた(画像はイメージ) 出典: Getty Images

生き延びた命で、なせることを積み重ねていく

先ほど書いたように、先日、私は腎血管狭窄の治療を受けた。治療はおもわぬ難儀となった。バルーンといわれる器具を何度使っても狭くなった腎血管は広がらなかったのだ。いろんな大きさ、長さ、太さのものをためしてもだめだった。

ああ、これからは人工透析か。事前に説明されていた最悪の結果を覚悟した。だがその直後、血管に合う器具が見つかり、血管が広がった。透析を免れたのだ。

もちろん透析は生きるための手段だ。透析を受けながら仕事をし、家族を養っているひとだってたくさんいる。前の職場にも数人、そんなひとたちがいた。だが私の今のからだの状態では相当厳しく、透析に果たして耐えられるのか、と勝手に想像し、強い不安を覚えていた。だがなんとか治療は成功し、今まで通りの生活が、またできるようになった。

生き延びさせてもらった。ストレッチャーで運ばれながら、大げさとわかりつつ、そう感じた。

退院してからも、体調は決して良好とはいえない。食事療法も課せられ、決して美味しいとはいえない低たんぱく質ご飯を食べる毎日だ。

でも、生き延びたからには、苦しいなりに両腕をばたつかせていたい。たいしたことはできない。今日は買い物に出られた。掃除ができた。少しだけ書き物をした。とにかく、今の自分になせることを積み重ねていこう、と思っている。「普通」は最初から望めなかったのだし、そもそもこだわる必要などなかったのだから。

苦しい胸の内をつぶやき、今はツイッターをやめてしまったらしい後輩女性とは、体調不良やコロナ禍もあり、しばらく会っていない。もし今度会えたら、お茶でも飲みながら、何気ない話で笑えたら、と思う。お互いからだもこころもつらいけど、普通に笑うことはできるのだから。

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