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育児雑誌が発する〝有用であれ〟ホームレス差別発言から考える子育て
「ホームレスの命はどうでもいい」――。今年8月、ユーチューバーが差別発言し、謝罪動画を公開しました。しかし、それ自体にも疑問が呈されました。
動画は「頑張っている」ホームレス状態の人がいるにもかかわらず、差別発言をしてしまったという内容でした。「努力すること」が生きる資格とも取られかねない、と指摘されたのです。根底には、「有用であるべきだ」という他者に対する呪縛があるように思いました。
私は違和感を覚えました。しかしながら、同僚に「『人の役に立たなきゃ』みたいな焦り、ありませんか?」と問われ考え込んでしまいました。
確かに、「役に立ちたい」という自身に対する呪縛があるのかもしれません。
そんな自分は、どこかで「役に立つ人間であってほしい」という他者への思いを抱いていないだろうか、と思ったのです。
ユーチューバーの発言は、ひとごとでは済ませられない気がしました。
私も「有用であれ」というメッセージを発しているのではないか。
それは、共働きの妻と娘(5)を育てている中で感じています。
子どもが洗濯物をたたんでくれたり、鉄棒で技を繰り出したりすると、褒める自分がいます。「○○してくれてありがとう!」「○○できてすごいね!」。そんな声掛けです。
でも、心の隅に違和感もありました。「成果」をとらまえすぎるのは、どこか褒められるための「条件」を提示しているのではないか。「有用であれ」というメッセージを伝えているのではないか。そうした懸念だと思います。
目の前にいる子どもの存在を肯定したいのに、「有用であること」の奨励にすり替わっていることのズレを感じていたのだと振り返っています。
ここまできて思います。子育ては「有用であれ」というメッセージを強めることがないだろうか、と。
そんな問題意識で「育児言説の社会学 家族・ジェンダー・再生産」(世界思想社)という本に出会いました。子育てに関わる言葉、特に育児雑誌が及ぼす影響について考察しています。
「現代のしつけ様式は、個人志向的な『見えない統制』が主流です」。詳しく話を聞きたいと思い、編者で宮城学院女子大学教授の天童睦子さんを取材しました。
天童さんは、子育ての一つの側面は、子どもの「社会化」の過程に関わることだと話します。日常的な言葉遣い、あいさつの仕方、場に応じた行動などを身につけていくことが「社会化」です。
そして、かつては明確な「しつけの型」があったと話します。
「『お兄ちゃんなのに○○しない!』『女の子は△△しなさい』といった具合に、上下や男女の区分を明示した命令的統制がありました」
ところが、現代は子どもの個性や自発性を重視した働きかけをするようになったそうです。例えば、きょうだいげんかをした時も、「どうしてけんかをしたの?」と子どもの内省を促すような関わりが主流になったというのです。
天童さんは、そうした子ども自身の気づきを通したしつけを「見えない統制」と呼んでいます。
子どもを「社会化」するため「統制」でありながら、明確な規範は「見えない」わけです。
「ここに『見えない統制』の難しさがあります」と天童さん。親子で関わりながら手探りで進めていくため、きめ細かに個性をみる能力や、絶えず見守りが必要になるとします。「『型』がないと模索が続きますし、正解が分からないことには不安もあります」
子育ての「型」がなくなる中で、現代では、育児雑誌などメディアの情報の中にヒントを探るようになった、と言うのです。
「育児雑誌における『有用であれ』というような能力主義的なメッセージは、2000年代以降、その強調に拍車がかかってきたと思います」
そう話すのは、「育児言説の社会学 家族・ジェンダー・再生産」の執筆者の1人で、北海道教育大学教授の高橋均さんです。高橋さんは、さまざまな育児雑誌の内容を分析。その傾向を探る研究をしています。
子育て当事者として、育児雑誌の影響の大きさは実感しています。高橋さんにも取材しました。
高橋さんによると、「ビジネスマン」向けの雑誌を作ってきた出版社が育児雑誌に参入したことで、能力主義的なメッセージを発する傾向が強まったそうです。
育児雑誌では「子どもの将来が輝く 最高の学校」「できる親子のタイムマネジメント」「未来のリーダーに欠かせない『折れない心』の作り方」などの特集が組まれているそうです。ほかにも、「脳を育てる」ことの重要性も説かれています。
「かつては、子どものケアやしつけが中心でした。ところが、子どもが小さいうちから能力を開花させ、個人のパフォーマンスを最大化することが重要であるというメッセージが強まってきたのです。私は、育児雑誌の『教育化』と呼んでいます」
高橋さんは著書の中で、育児雑誌の中で描かれるのは「勉強もでき、望ましい行動へと自らを導き、自己管理することのできる、いわば『完璧な子ども』である」と指摘しています。
子育てにおける親のまなざしについて、高橋さんは「能力主義を自明としていないか」と投げかけました。
私にもうなずく部分があります。
「一般的には、小学校○年が塾に通い出すタイミング」「中学受験するなら、別学か共学か」――。大切なことは、子どもと向き合うこと、考えの軸を持つこと。そうは思いながらも、「中学受験」に関するニュースサイトの記事を、ついついクリックしてしまいます。
娘はまだ5歳。ずいぶん気が早いと自覚しています。
私も妻も中学受験とは無縁でした。見知らぬ世界に対する不安も好奇心もあります。「子どもの選択肢をひろげたい」。学びに目が向いた時に備え、心構えをしたい。それも偽らざる思いです。
受験には、勉強以外、子どもの育ちへのよい影響を考慮した選択もあろうと思います。ただ、「勉強」に焦点が当たりがちなのは否めません。「能力主義を自明としていないか」という指摘は重いものです。
「役に立つか」という尺度、言い換えれば「有用性」のような物差しが、自身の中に根付いているのは確かです。
それが、子どもに対する「役に立つ人間に」というメッセージとなっていないか、危惧をしています。
自己を肯定的に捉えることは、困難に直面した時の適応力を高めることにもつながります。社会は助け合いで成り立つ部分も大きいです。「役に立つ」「役に立ちたい」と思うこと、それ自体は必ずしも否定できないと思います。
けれども、「役に立つ」ことを評価軸にした考え一色に染まってしまえば息苦しいし、転じて「役に立て」というそのまなざしは、誰かを追い込むことにならないか、とも思います。
そういうリスクをはらんだ思考が、少なくとも私自身の中にあるということは自覚したいと思います。
インフルエンサーが「ホームレスの命はどうでもいい」と発言して炎上、謝罪しました。
「役立つかどうか」「価値があるかどうか」で人間を判断するような基準の広がりが根底にあるのではないでしょうか。
一方で、「役に立ちたい」という個人の思いは、自らを苦しめることもあれば、肯定的にとらえられることもあります。
さまざまな視点で「役に立つ」を考えます。みなさんのご意見も「#役に立つの呪縛」でつぶやいてみてください。
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