連載
#4 名前のない鍋、きょうの鍋
我が家の〝名前のない鍋〟米朝師匠とつついた豆腐鍋の決まりごと
古典が散らばる長屋に漂う湯気
みなさんはどんなとき、鍋を食べたくなりますか。
いま日本で生きる人たちは、どんな鍋を、どんな生活の中で食べているのでしょう。そして人生を歩む上で、どう「料理」とつき合ってきたのでしょうか。
「名前のない鍋、きょうの鍋」をつくるキッチンにお邪魔させてもらい、「鍋とわたし」を軸に、さまざまな暮らしをレポートしていきます。
今回は、桂米朝の内弟子として修業した落語家のもとを訪ねました。
桂吉坊さん:落語家。1981年兵庫県西宮市生まれ。17歳で桂吉朝に入門。2000年から3年間ほど、桂米朝(吉朝の師匠)の内弟子として住み込みで過ごす。現在は日本全国をフィールドに、落語会や他の古典芸能家とのコラボイベントなどで多彩に活躍。
秋の終わりを感じさせる冷気が風に交じり始めた頃、桂吉坊さんの家を訪ねた。
大阪市中央区の長屋の2階が、まるまる吉坊さんの部屋。窓ぎわの円卓にはカセットコンロと行平鍋がすでに用意されている。水がはられて、大きめのだし昆布が寝そべるように鍋底に横たわっていた。
家のあちこちに本がある。古書も多い。
『大阪ことば事典』『日本伝奇伝説大事典』なんて本のそばには、畳紙(たとうし)に包まれた和服がいくつも積まれてあったり、「吉」の文字がいっぱいに染められた風呂敷包みがあったり。なんだかそこかしこに古典が散らばっているな、といった思いになった。
台所から包丁を使う音が響く。
リズムのある、作り慣れた人の出す音だ。白菜の葉と白いところをてきぱきと切り分けていく。
「きょうの気分で、鍋料理を作ってください」というざっくりしたお願いを快く引き受けてくださった吉坊さんは、現在40歳。
初めて包丁をにぎったのは「桂米朝さんの内弟子になったとき」とのことで、19歳になる年だった。内弟子とは、師匠宅に住み込んで日常の用事雑事一切をするのである。
「食事の支度もするんですが、最初は何をどうしていいのか全然分かりませんでした」
米朝夫人や兄弟子から教わりつつ、見よう見まねで料理を覚えていく。嫌いではなかったようで、覚えは早かった。興味も出てきて、そのうち魚をさばくようにもなる。
「自己流です。あるときうちの師匠(吉朝)が釣りにハマったことがあって、急に鯛を持ってきて、さばくことになって。しどろもどろになりながらも、やりました。そうしたら『落語の稽古にもなるがな』って。鯛が出てきて料理するような噺がいくつかあるんです。大根のかつらむきもやるんですよ、米朝師匠がお刺身が好きなので。元板前の兄弟子がいて、教えてくれました」
そんな吉坊さんのきょうの鍋の具は、豆腐に白菜、鶏肉。昆布だしで煮て、ポン酢でいただく。
「米朝師匠は豆腐と白菜だけの湯豆腐がお好きでした。まず豆腐だけを昆布だし煮て濃口醬油と花がつおで食べてから、白菜を入れるんです」
鍋の用意をしたら、一緒にいただく。米朝さんは大の酒好きだったと聞く。やっぱり、お酌も用事のうちだったのだろうか。
「いえいえ、一升瓶からご自分で直接コップに注がはります。常温で。“いらち”ですから(笑)。人にも注ぎたがりましたね。ビールも飲まはりましたけど、大体が日本酒。お酒はほぼ毎日でしたよ」
いらちとはせっかち、気が短いみたいな意味の関西言葉。話し相手、飲み相手として聞いた雑談や思い出話が、のちに芸に活きることも多かったに違いない。お酒が強かった吉坊さん、「お、飲めんねやないかい」と米朝さんに喜ばれ、可愛がられた。時に米朝さん75歳。
「僕は酒の“稽古”も完全に米朝師匠からです。なんでこんな飲めんねやろと思ってました」
吉坊さんは豆腐と白菜を楽しんでから、鶏肉とたっぷりの千切りショウガも加えた。この2つを入れるのは、日本舞踊の師匠宅でごちそうになった鍋から影響されているそう。
なるほど、吉坊さんの日常鍋は師匠ふたりのスタイルがミックスされているのだな。
日舞というと、米朝さんの代表作のひとつ『地獄八景亡者戯』(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)を思い出す。
閻魔大王の決まり姿など、日舞を習った人だからこその形の良さを米朝さんも吉坊さんも見せる。落語において日本舞踊は重要な素養なのだ。
コロナになって仕事が減り、家で過ごすことが増えた。自炊する機会や家でのひとり飲みの時間も、それに伴って増えている。
鍋は多いときで週に2~3回、一度にいっぱい煮ておいて、3日ぐらい食べ続けることもあるという。
吉坊さんが落語に魅せられたのは中学生のとき。ラジオで偶然耳にした『けんげしゃ茶屋』という噺(はなし)が面白くてたまらなかった。演者は米朝さん。
「当時中学2年生、登場する芸者とかお茶屋が何なのか全然分からないのに面白かったんです」これはすごいものだと感じ入る。テレビで落語があれば見逃さないようになり、落語会にも行くように。
中学3年生のとき桂吉朝さんに弟子入りを願うも「高校に行け」と諭される。めでたく弟子入りが叶ったのは高校2年生のときだった。
「家で鍋をするときは僕も飲んでますね、十中八九。落語のテープを聞きながらのこともあれば、本を読みながらのことも。豆腐鍋のときは米朝師匠、他におかず要らないんです。だから『きょうは鍋や』と言われると『助かったー』と思いましたねえ、ラクですから(笑)」
鍋の置かれた円卓に向かうように、師匠である吉朝さんの写真が置かれてあった。その上の壁には米朝さんの写真がかけられ、浴衣姿のくつろいた表情を見せている。
吉坊さんは勉強家だ。落語以外でも日本の歌舞音曲のほか、古典文学や書画に関しても興味は尽きないようで、自分なりの研鑽を重ねている。日々更新されるツイッターからも、その勉強ぶりがうかがえる。
明治から昭和を生きた日本画家・菅楯彦の絵を見せてくれた。「大好きなんです」と。大阪風俗を愛し、描いた画家である。
「楯彦先生が描く当時の様子、人々の姿や表情をお客さんにしゃべりで見せる、感じさせるにはどうしたらいいか……なんてことを考えるのが、好きなんです」
そんな自問自答を重ねながら、吉坊さんは鍋をつついているんだろう。かつて米朝師匠が中学生の自分に感じさせた落語の豊かさを、自分もお客さんに伝えたい――静かな熱意が伝わってくる。
窓から風が入って、行平鍋からいい匂いの湯気が立った。「そんなに豆腐を煮込んだらあかんがな」なんて米朝さんが言われているような気がする。
取材・撮影/白央篤司(はくおう・あつし):フードライター。「暮しと食」、日本の郷土料理やローカルフードをテーマに執筆。主な著書に『にっぽんのおにぎり』(理論社)『ジャパめし。』(集英社)『自炊力』(光文社新書)などがある。ツイッターは@hakuo416。
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