話題
遊郭建築の写真が伝える人間の本質 災害、戦争、行政の思惑に翻弄
駅北口5分、アーチくぐった先の異空間
幻のように消えてしまった遊郭建築の写真からは、遊興の街の歴史が浮かび上がります。災害、戦争、行政の思惑などにほんろうされながらしぶとく生き残ってきた遊興エリア。三つの場所にまつわるエピソードから、いつの世も変わらない人間と社会の本質に思いを馳せてみたいと思います。(写真と文 朝日新聞フォトアーカイブ・峰哲也)
首都圏のベッドタウン、神奈川県藤沢市。ここにかつて存在した遊郭は、江戸期の東海道・藤沢宿が起源でした。
かつて行政はしばしば、男性向けの遊びの場所の治安維持を目的に、散在する店を一か所に集めて閉じたエリアを作る政策を行い、それが「遊郭」になりました。
明治時代、元々の藤沢宿付近に散らばっていた娼婦を置く店は、県の集娼政策によって藤沢駅に近い方角へまとめて移転になり、遊郭として再スタートします。
終戦直後の日本では、GHQ指示による改革のひとつとして、女性の身体その他の自由を拘束する遊郭の制度が撤廃になります。藤沢の遊郭も廃止になり、国策による進駐軍向けの特殊慰安施設の設置を経て、その後は「女給」名目の娼婦がいるカフェーの街へ移行しました。
日本では戦後、遊びの場所は表向きは飲食店風の娼家が集まる「赤線」「青線」などと呼ばれるエリアになり、豆タイルや曲線を多用した洋風のカフェー調の建築が大流行しました。
筆者が撮影した2005年頃の藤沢の旧カフェー街の入り口付近には、当時のアーチが残っていました。場所は藤沢駅北口から徒歩でわずか5分ほど。アーチを通り抜けた奥には、耐震偽装問題で後に建て替えになった建築を含む多くのファミリーマンションが建ち並び始めており、それらに埋もれるように、渋い茶色の豆タイルで飾られた戦後すぐのカフェー調建築が残っていました。
藤沢のカフェー街では、売春防止法全面施行の1958年まで営業が続きましたので、この建物は終戦直後から1958年までの隆盛を伝える遺構となります。
撮影時、茶色のタイルの家の隣には3軒の元娼家、向かいにも娼家からソープランドに転用された建物があり、それら全てを見渡せる軒の上で、シマの主と思しきラスボスのようなネコが睨みを利かせていました。一帯はその後も駅近の利便性の良さから急ピッチで土地開発が進み、これらの古い建物は軒並み消滅して、現在に至ります。
ただ、冒頭写真のアーチだけは2020年まで、周囲との著しいコントラストで異世界への入り口さながらの気を放ちながらずっと残り続け、複数のYouTube動画にも被写体として取り上げられました。実は筆者も、アーチ撤去の情報をYouTubeとTwitterで知ることになり、遊郭研究とネットの親和性に時代の変化をひしひしと感じました。
しかし、土地の歴史の化身が消えて、どこにでもあるマンション街のようにしか見えなくなっても、現地を少し歩くだけで小さな赤い鳥居や古い飲み屋、少数の風俗店などが歴史を語るように静かに残っているのを確認することができます。
人気の観光都市、京都。市街地を南に向けて下る、鴨川に架かる五条大橋の南西一帯に、かつて遊びの場所がありました。江戸期から1958年の売春防止法全面施行まで公許の遊里として続いた、旧「七条新地」(しんち=男性の遊びの需要に応えるために、新たに開かれた場所)です。
新地内では鴨川から分岐した高瀬川が穏やかにせせらぎ、純和風の遊郭建築と、関西らしい色彩豊かなカフェー調建築を一気に多数見ることができる、しっとりした京都観光とディープツアーを兼ねた町歩きが実現する魅惑のスポットになっています。
京都では東京の遊郭と対照的に、古い建築が戦禍を逃れ後世まで残りました。七条新地では戦後も赤線として営業が続き、生き残った遊郭建築に加えて多くのカフェー調建築が建てられました。
1958年の売春防止法全面施行の後、他の多くの赤線と同様に転業で苦慮する中、このエリアは七条新地から「五条楽園」と名を変え、当局からは「お茶屋」業の許可を受けながら、変わらない内容で営業を続ける道を選びました。
建前は祇園と同様の花街で、客がお茶屋に入り、置屋から派遣される芸妓に接する段取りは、花街のお茶屋遊びそのままでした。楽園内には歌舞練場もあり、女性は芸妓として欠かせない定期的な稽古にも取り組みました。
しかし2010年、取り締まりの強化によって、遊びの場所としての五条楽園は突然に幕を閉じます。2021年11月初旬、兵庫県尼崎市のかんなみ新地にも行政から営業実態についての警告が出され、一斉廃業したことが地元紙などで報道されていますが、このような場所の死活は法とはまた少し違う場所にあるようで、その時の行政の判断次第となっています。
2010年以前、ここは反社会的勢力が拠点を構える地であったことも重なり、筆者も大変に緊張しながら撮影を行っていましたが、本特集の多くを撮影した2012年頃には、かなり歩きやすい街になっていました。
最近では元娼家が大きく外観を変えてリノベーションされる形でホテル、おしゃれカフェなどに変身するケースが増えており、観光客大歓迎の雰囲気へと変わってきているようです。
今では多くのYouTuberが悠々と撮影しながら歩く空気感となっており、ここでも神奈川の藤沢と同様に街の世代交代と、時代の変化が感じられる状況になっています。
明治から大正にかけ、演劇や活動写真など興行の建物が並び賑やかだった東京・浅草。
12階建ての観光タワー、凌雲閣の足元は浅草十二階下と呼ばれ、その裏手に近くの吉原よりもずっと安直な「魔窟」と呼ばれる大所帯の私娼街がありました。ここは遊郭のような面倒な段取りを避けたいと感じる、手軽な遊びを好む層から支持を受けていました。
店は「銘酒屋」「新聞縦覧所」などと称し、言い訳のように酒瓶や新聞を並べながら、裏で接客が行なわれていました。
1912年6月の東京朝日新聞の特集記事「不気味な町」でこのエリアが取り上げられ、その中で42歳の娼婦が「先日12歳13歳14歳の子ども3人が連れ立って店に来た。14歳の子供は度々の銘酒屋遊びで罹った淋病を自慢している。自分が一人前の男にした子供は全部で40人くらいはいて、名誉でもないが縁起がいい感じはする」(要約)と、ある意味おおらかとも言える、現代では考えられない内容を記者に話しています。
奥に控える本流の吉原遊郭を食うほどに繁盛していた浅草の銘酒屋街でしたが、1923年の関東大震災により、ランドマークだった凌雲閣とともに灰燼に帰します。業者の相当数は生き残りをかけて、現在の墨田区・東武線東向島駅の北東一帯に広範囲に移転し、後に作家・永井荷風がラビリント=迷路と表現した「玉の井」銘酒屋街が生まれました。
しかし、その玉の井も東京大空襲でほぼ全域が焼失。業者はその際もいち早い営業再開を目指して、今度は1キロほど南西の焼け残った場所に新たな歓楽のエリアを開拓しました。ここは神奈川の藤沢と同様に進駐軍を受け入れた時期を経て、「鳩の街」カフェー街として1958年まで賑わいます。
鳩の街は、閉じた暗いイメージが残る元遊郭だった赤線と異なり、開放的な戦後の気分を反映する新興の色街として、若者からも人気を集めました。
戦後の10年強の華やかな時期を経て、赤線廃止の後は旅館に転業した家もありましたが、現在では表通りの商店街の名前にだけ「鳩の街」を残して、墨田区らしい静かで懐かしい雰囲気の下町となっています。
今回は3か所で歴史を振り返りましたが、多くの場面でしぶとくその灯を絶やすまいと人間が粘る姿が見えました。その様子は社会が無言で訴えてくるこういった場所の必要性、行政の思惑、その土地で生きる人々の経済学など、まさに社会の縮図であったと言えます。
遊びの場所の是非に結論はありません。ただ、社会に存在する様々な選択肢の中から皆が何かを選ぶことを迫られるとき、これらの歴史が、思考を手助けしてくれる側面は確かにあります。そして単純に、遊びの場所の歴史は人間学、社会学のひとつとして知るほどに興味深く、最後は、これに尽きるのではないでしょうか。
1/22枚