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ドリフ原点に音楽 いかりや、志村が他界…3人で奏でるアンサンブル
「死ぬまでバカでいたい」の意味
12月27日に『ドリフ&志村けんの年末爆笑コント祭り!』と『志村けんとドリフの大爆笑物語』(ともにフジテレビ系)の放送が決定するなど、ザ・ドリフターズはいまだ高い人気を誇っている。リーダーのいかりや長介、志村けん亡き後も、加藤茶、高木ブー、仲本工事は今もなお精力的な活動を続けている。その魅力の原点には、ミュージシャンでコントグループというドリフの〝両面〟があった。(ライター・鈴木旭)
いかりや長介がリーダーになる前からザ・ドリフターズのドラムを担当し、常にグループの人気を支え続けたのが加藤茶だ。志村けんが加入するまでは最年少メンバーとして活動しており、小柄で愛嬌のある振る舞いによって見る者を魅了した。
『8時だョ!全員集合』(TBS系)のエースとして活躍し、「ぐるっと回ってうんこチンチン!」「どうもすんずれい(失礼)しました~」「チョットだけヨ。アンタも好きネェ」など、当時流行したギャグは数多い。番組終了後は志村とコンビの『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(前同)がスタート。『全員集合』とは趣向が異なるドラマ仕立てのコント、そして何よりも2人の“あうんの呼吸”が絶品だった。
志村は著書「変なおじさん〈完全版〉」(新潮文庫)の中で「加藤さんがボケで、僕がツッコミという役割だけど、同じボケるのでもいろんなことをやってくる。突拍子もないことというよりも、その役の中でこなせる演技の幅がすごく広い。そのへんは、まさに天才肌だ」と絶賛している。
先月行われた「もリフのじかん」武道館ライブを観ても、その立ち回りは実に柔軟だった。基本的なツッコミを東京03・飯塚悟志に委ねつつ、下ネタを放ってみたり逆にフォローを入れたりしながら、軽妙に笑いへと変えていく。脱線役もまとめ役もできるオールラウンダーぶりはいまだ健在だ。
1964年、いかりやの新生ドリフが誕生すると、途端に小野ヤスシをはじめとするオリジナルメンバー4人が脱退。加藤といかりやが残ったグループに、新メンバーとして最初に加入したのが高木ブーだった。
ジェリー藤尾のバンド「パップ・コーンズ」ではバンジョーを弾き、次に組んだ「シャドーズ」ではエレキギターを担当。コミカルな風貌によっていかりやの誘いを受けたわけだが、当の本人は「笑いの“わ”の字も知らないでさ、デブだってだけで入れられたんだから」と語っている。(2021年3月5日に公開されたYouTubeチャンネル「IZAWA OFFICE / イザワオフィス」内の動画「【高城れに/松崎しげる/大槻ケンヂ/加藤茶/仲本工事ゲスト】高木ブー家を覗いてみよう2018」より)
とはいえ、コントにおける高木のポテンシャルは高かった。『全員集合』のコントでは最初に高木が登場することで会場の空気を和ませ、『ドリフ大爆笑』(フジテレビ系)の「雷様」ではいかりやへのボヤキで視聴者を笑わせている。また、どんな場所でも寝てしまうマイペースなキャラクターでも愛された。
ちなみにミュージシャンの大槻ケンヂは、先述の動画「高木ブー家を覗いてみよう2018」にゲスト出演した中で、自身のバンドである筋肉少女帯の楽曲「高木ブー伝説」がメジャーで発売されるまでに何度か頓挫しそうになったものの、「そんなの笑って許してやろうよ」という高木の一言ですべてがまるく収まった経緯と感謝の気持ちを明かしている。
こうした懐の深さも含めて、後続のミュージシャンやタレントから慕われるのだろう。
高木の紹介でドリフのメンバーとなったのが仲本工事だ。大学時代から高木も在籍したバンド「パップ・コーンズ」でシンガーとして活動しており、1966年のビートルズ来日公演の前座ではドリフのメインボーカル&ギターとして『のっぽのサリー』を披露している。
幼少期から文武両道の秀才タイプ。学力は常にトップクラスで、中学からは体操とギターに熱中。高校に進学すると、体操では東京都の新人戦で個人総合4位に入賞。学園祭ではバンド演奏でも注目を浴びる存在だった。コメディアン志望ではない仲本がドリフで活躍できたのは、あらゆる方面での能力が高かったからかもしれない。
リーダーのいかりやは著書『だめだこりゃ』(新潮文庫)の中で、1970年7月に加藤が交通事故を起こして『全員集合』から離れていた時期をこう回想している。
「仲本はその(加藤の)代役を完璧にこなした。お客からの声援は仲本に向けられ、視聴率も観客数もまったく減らさなかった。加藤は数週間で復活したが、それ以降はいつもの仲本に戻った。やりゃあ出来るヤツなんだ」
その後、体操コーナーで存在感を示し、番組後半のショートコントでは志村とよくコンビを組んで会場を沸かせた。変幻自在に立ち位置を変えられる仲本は、どのメンバーにもないミステリアスな魅力を放っていた。
1985年に『全員集合』が終了して1990年代に入ると、徐々にメンバーそれぞれの活動が目立ち始める。
いかりやはドラマや映画に出演し始め、1998年に公開された映画『踊る大捜査線 THE MOVIE』で第22回日本アカデミー賞の最優秀助演男優賞を受賞するなど俳優としての地位を築いていく。志村は『志村けんのだいじょうぶだぁ』や『志村けんのバカ殿様』(ともにフジテレビ系)といった自身の番組だけでなく、1990年代後半にはドリフ以外の番組にゲスト出演することも増えていった。
そんな状況下で1993年、加藤、仲本、小野ヤスシは「加トちゃんバンド」を結成する。また1999年には「こぶ茶バンド」(仲本工事の「こ」、高木ブーの「ぶ」、加藤茶の「茶」を入れた名称)をスタートさせ、3人がミュージシャンとしてのドリフをキープしていった。
学生時代に映写技師のアルバイトをしていた加藤は、ジェリー・ルイスやディーン・マーティンといったコメディアンの影響を受けている。しかし、高木や仲本には笑いの素地がなく、ドリフ加入後からお笑いの世界に飛び込んだクチだ。バンド活動は、そんな3人をつなぐものだった。
いかりや、志村が他界し、結果的に「こぶ茶バンド」は「ドリフ」となった。時を経て本来のバンド形態に戻ったわけだが、3人の今が一番フットワークは軽く見える。来年以降も、今のドリフならではの活動を続けてほしいものだ。
ドリフの笑いの原点は音楽にある。加藤の「加トちゃんペッ!」はジャズ喫茶での演奏中に汗で鼻下の付け髭が落ち、よくいかりやに怒られたことから、それを逆なでする行為として「ペッ!」とやったところから始まった。
『全員集合』では専属の作曲家に依頼し、毎週のようにコントのテーマ曲を書き下ろしてもらっていたという。そのほかオチ音やバックバンドの演奏の仕方にも細かな注文をつけ、いかりやが理想とするコントを突き詰めていった。
演者であるドリフも“音楽の間”を重視した。加藤は、2020年10月20日に放送された『ザ・ドリフターズの秘密 〜バンドマンが笑いを生んだ〜』(NHK BSプレミアム)の中でこんなことを語っている。
「“間”ってね、簡単に言うんだけど、みんな一人ひとり違うんですよ、間が。その人そのものの間があって。(中略)一概にね、間がいいからとか間が悪いからとかって、それは言えないですね。何か高木さんに言った時、だいたいズレて返って来るんですよ。そのズレて返って来ることも間なんですよ。だから、それをこっちがわかってればそこでコケられる。感覚的なものだからね、人に教えられるもんじゃないんだよね」
まさにチーム特有のアンサンブルで笑わせたのがドリフだ。同番組のエンディングで加藤は「死ぬまでバカでいたい」と口にしていた。そのスタンスは、さながら滑稽なリズムを軽快に鳴らし続けるかのようである。
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