連載
#17 ゴールキーパーは知っている
「ゴールキーパー・藤川」の息子が追う父の背中 プロになれなくても
GKの経験、次の夢に
ゴールキーパー経験者の話を聞くのは面白い。ポジションを選んだきっかけや、身長の伸び悩み、レギュラー争いに至るまで、それぞれの選手にドラマがあって奥深い。サッカー日本代表の板倉滉選手(シャルケ/ドイツ)のマネジメントを担う、藤川誠人さんもまた、波瀾万丈のゴールキーパー人生を歩んできた。(朝日新聞・岡田亮)
『ゴールキーパー・藤川』と聞いて、ピンと来たファンもいるだろうか。誠人さんの父は、Jリーグ創世期にヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)で活躍した故・藤川孝幸氏である。誠人さんは物心つくころにはグローブをはめ、父が出場しているJリーグのビデオを何度も見た。
「直接指導されたことはほとんど無いのですが、時々、基礎練習を何時間もやらされる“しごき”がありました(笑)」
神奈川県出身。小学校も卒業が近づく頃、なかなか身長が伸びなかった誠人さんに対し、「お前は足元がうまいからフィールドプレーヤー(ゴールキーパー以外)になったらどうか」と父は薦めた。それでもゴールキーパーが楽しかった誠人さんは「キーパーをやらせてください」と懇願した。
希望だったJリーグジュニアユースにはセレクションですべて落ちてしまった。しかし、中学校の部活に入部後に地域の将来有望な選手を育成するトレセン(トレーニングセンター)に選ばれ、その活躍を見た横浜FC鶴見ジュニアユースから声がかかり入団。そこでゴールキーパー専属のコーチから指導を受けることができた。
背が伸びないならキックを武器にしようと考え、毎日最低1時間のキック練習で技術を磨いた。その成果もあってか、関東選抜のバックアップメンバーにも選出されるようになった。
ただ、中学3年生になっても身長は160センチ前後と伸び悩んだ。横浜FCのユースチームに昇格することはできなかった。
2人の兄が通っている高校に進学するよう父から言われた。「僕には他に行きたい高校があります。お願いします」と、ここでも父を説得した。
その後、誠人さんは桐蔭学園、慶応大学とエリートコースを歩む。高校3年次にはキャプテンにも任命された。
「180名の部員をまとめるには、トップダウンしかないと思い込んでいました。後輩からしたら、恐かったと思います」と高校時代を振り返る。
一方で、大学はボトムアップで、人間力を培う大きな転機の場となった。
「キャプテンや幹部の先輩たちの人間性の高さにびっくりした。下級生の意見にも耳を傾けてくれた。控えキーパーたちも自分の役割を見つけ、率先してチームのために取り組んでいた。」
誠人さんも、これまでは自分のために努力を重ねてきたが、チームのために汗をかくようになったという。
人生の転機となったのは、大学4年生の11月。大好きな父が他界した。
胃がんの診断を受け、余命3カ月を宣告されてから1年以上生きた。「絶対に治すから」といつも明るく振る舞っていた父。184センチの長身でプロを生き抜いた体が抗がん剤でやせ細っていた。
最期は、家族全員で看取ることができた。父に家族から一人ずつ言葉をかけた際、誠人さんは「父さんを越えてみせるからね」と誓った。涙が止まらなかった。
お別れ会には300名近くが参列し、弔辞は父のチームメイトだった都並敏史さんが読んでくれた。父は、引退後も東京ヴ、仙台、神戸などでGKコーチをし、亡くなる直前にはソーシャルビジネスの会社に入社。北海道のクラブでオーナーも務めていた。
「父にはこんなにすごい人脈があったのか。生きているうちに紹介してほしかった(笑)本当にすごい人だったのだと改めて思いました」
結局、誠人さんは子どもの頃から目指していたプロサッカー選手にはなれなかった。
それでも、現在はプロサッカー選手をマネジメントする会社を立ち上げた。板倉選手とは小学校のチームメイトだったのだ。
ゴールキーパーの経験を通じ、客観的に物事を見る力、言語化能力が身についたと語る誠人さん。学生時代に学んだリーダーシップも発揮し、父に負けない人脈もこれから築いていくのだろう。
「偉大な父を全ての面で越えて見せます」と語る誠人さんの目に、曇りは無かった。
父に重なる頑固さ――取材を終えて
誠人さんはきっと頑固者だ。絶対的な父が掲示した道を、何度も断っている。自分の意志を貫き通している。子どもがなかなかできることではない。それを許した孝幸さんは、どこか自分に似ていて嬉しかったのではないか、と想像してしまう。
誠人さんは元日本代表のキーパーから「君のお父さんより熱い選手はいなかったよ」と声を掛けられたそうだ。誠人さんの中にも、そうしたマグマのような熱い気持ちを、インタビューを通じて感じ取れた。
「板倉滉をもっと有名にしてみせます!」という目標もすぐに叶えてしまう気がしてならない。
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