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飲食店からも同情された花火師、被災地で季節外れの大輪が咲くまで
あっという間に集まった200万円の募金
晩秋の東北の夜空が、季節外れの花火で彩られた。東日本大震災の被災地、岩手県大槌町吉里吉里。あの時、花火に癒やされ、元気づけられた住民が、コロナ禍で苦しむ花火師たちを少しでも救いたいと、開いた花火大会だ。
「夢でしか会えないあなたへ。ずっと見守っていてね」
「災害のないいいまちになりますように」
「医療従事者の皆様へ、感謝を込めてエールを送ります」
10月23日夜、釜石高校3年生の土手愛菜さん(17)がアナウンスするメッセージとともに、吉里吉里漁港の突堤から24種類、1300発の花火が上がった。
コロナ感染対策で観覧席は設けなかったが、花火は、海が見える場所なら地区内のどこからでも見える。住民は、自宅や学校のグラウンド、国道脇など好きな場所で楽しんだ。
こんなメッセージもあった。
「大仙市花火師の皆様へ。夢と感動をありがとう」
ひときわ大きい、直径300メートルの尺玉が、雲一つない夜空に開いた。
吉里吉里は2011年の震災で100人近くが犠牲になり、市街地が壊滅状態になった。「大曲の花火」で知られる秋田県大仙市の花火師たちは、2014年から5年間、夏に吉里吉里に来て花火をあげてくれた。
きっかけは、大仙市立平和中学校の生徒たちだった。震災後、仮設住宅の住民らから体験を聞くなど防災について学び、一緒にグランドゴルフを楽しんでいた生徒たちが「物より心に届く支援を」と、資源物回収や市民の寄付で集めたお金で大会を企画した。
花火師の北日本花火興業・今野義和社長(57)と和火屋・久米川和行社長(47)は平和中OB。可愛い後輩のために一肌脱ぎ、その額を上回る花火を上げた。
毎年、大仙市から片道3時間かけてやってきた今野社長は「当時はがれきをかき分けるように打ち上げる場所を探したなあ」と、再建された新しい町並みを眺めて言う。
吉里吉里の石材業・芳賀光さん(47)は「美しい花火を見ながら失われた地域や故人を思い出していやされた。元気づけられた人もいた」と空を見上げて振り返る。
ところが、昨年からの新型コロナウイルスの流行で、大仙市でも全国的に有名な「大曲の花火」が2年連続で中止になるなど、花火師たちの仕事が例年の1、2割に落ち込んだ。「営業の厳しい飲食店にさえ。大丈夫かと同情されるほど」と今野さん。
その窮状を知った芳賀さんら吉里吉里の有志が、昨年、「恩返しに、今度は我々の手で花火大会を開こう」と立ち上がった。
吉里吉里は、日本から独立を宣言する住民を描いた井上ひさしの小説「吉里吉里人」のモデルになったほど、地域の結束が固い地区として知られる。あっという間に、町内会や消防団など地区をあげての募金運動に広がった。
芳賀さんは「コロナ禍で地区の祭りや運動会など子どもたちが楽しむイベントが軒並み中止になった。こんな時だから思い出になるようなことをしてあげたい、との思いもあった」と話す。地名の由来となったとされる「きりきり」と音がなる美しい海岸も、まだ周辺の護岸工事が終わっていないため、海開きができていない。
地区の約9割の世帯や事業所、子どもたちに勉強を教えに来ていた明治学院大の卒業生ら支援者などからの約150万円が集まって昨年10月、花火大会は復活。今年は、さらに上回る200万円以上が集まった。
支援する側からされる側になった今野社長は「ありがたい。離れた親類のように、お互い心配し合う関係になれた」と喜ぶ。当日は気温が10度以下になり、冷たい浜風が吹く寒さ。30分ほどの大会に、3時間以上かけて準備した。それでも、久々の仕事に9人の職人たちは笑顔が絶えなかった。花火が終わると、突堤にいる花火師と、岸にいる住民の間でペンライトを振ってエールを交換した。
来年以降も花火大会が今後も続くかどうかについては、「住民に強制できない」(実行委)と未定だが、実行委員会のメンバーで大槌町中央公民館吉里吉里分館の芳賀博典分館長(70)は「コロナ禍が収束しても、支援から交流へと発展したつながりを、今後も持ち続けたい」と話している。毎年、平和中の生徒たちの吉里吉里訪問も、コロナ禍で中断しているが、写真や手紙を送るなど関係は続いている。
「忘れないあの日あの時を」と刻まれた石碑の前で、花火が上がっては、大声ではしゃぐ子どもたち。その横で、無言で目を細めるお年寄り。子どもに見せるために寄付した花火が打ち上がり、拍手する保護者たち。そんな様子を見ていて、モニュメントもいいが、イベントや交流で津波の記憶を継承し、風化を防げるのもいいのではと思った。
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